2.昭和30年代(1955~1964)


 昭和30年代にはいると、わが国のラグビー界も日本協会が、普及活動を中心に育成・強化活動についても組織的にも安定した活動が行われるようになった。しかし一方では、1956年(昭和31年)にはアマチュア問題で日本体育協会からの脱退事件や1957年(昭和32年)には関東大学ラグビーのブロック制導入など日本のスポーツ界の中でも社会的に影響を及ぼす問題や事件も生じている。
 こうした様々なスポーツ界としての問題に対して、日本協会としての具体的な対策が講じられる中にあって、日本ラグビーは全体的に観客数が減少していった事実が存在している。これには、様々な要因が考えられるが、1964年(昭和39)年に東京で開催された東京オリンピックゲームへ向けた日本社会全体の情勢は、オリンピックの参加種目ではないラグビー競技、そのものに対して他のスポーツ競技団体と比較して、相対的に社会からの注目度を低くさせてしまったという点が、重大な理由の1つであったと思われる。
 実際、当時の日本ラグビー界の様々なゲームでは、全体的なゲームの内容自体も消極的であり、面白みには欠けていた点は過去の資料からも指摘されている。また、大学ラグビーにおける伝統校の低迷や新興勢力校の急上昇、社会人の強化策の影響など様々な原因が重なり、ラグビー競技を観戦しようとする観衆の足はラグビー場から離れて遠のき、結果的には、観客数の減少を言う数字的としての現実問題につながったことも否めない。つまり、昭和30年代の日本ラグビーとしての全体像は、日本ラグビーの歴史の中では低迷の時代であったといってよいと思われる。
 しかし、こうした問題の打開策のひとつとして、大学や社会人レベルで日本一を決定しようとする動向がみられ、1963年(昭和38年)に日本選手権、1964年(昭和39年)に全国大学選手権等が実施されるようになった。まさに、日本ラグビーにおける選手権時代、そしてラグビー人気復活の幕開けの時代といってよいだろう。
 一方、ルール改正の変遷という観点から検証すると、この年代は、ラグビーに関連する様々な活動について、日本協会がより組織的に機能するための取り組みが着実に行われた時代でもあった。今回振り返ることになったルール改正の変遷を検証するためにも、極めて重要な時代であったと考えられる。
 ルール改正の動向としては、前述したように昭和33年度からルール改正の内容が、NZ協会の好意により、同じ年度内に確実に把握できるようになった。この年のルール改正の主眼は、試合をスピード化することで無意味なゲームの中断をなくすこと、乱暴なプレーを強く取り締まることであった。この一文からも戦後のラグビーのルール改正の主眼点は、“プレーの継続と安全”に置かれたことがうかがえる。また、ルール全般を35条に大幅整理し、タックルされた後のプレー内容の変更(手でボールを扱ってもよくなる)、フリーキックからのランニングプレーの許容等がされ、以後、ペナルティーキックからのランニング許容等を含めたプレーのオープン指向化を計る内容が主なものとなった。
 表2にも示すように不正なプレーによる傷害の予防等を含めた事故防止に関する改正が主なもので、さらに、プレー以外にもプレーヤーの服装等に関する改正も行われた。
【昭和30年代】(表2)
昭和30年代(表2)ルール改正一覧

 これ以前の英国のラグビーと日本のラグビーのルールに相違があったこととすれば、それは諸外国の様々な資料等を調査収集し、さらに詳細に検討を加え、現在のラグビーに与えた影響等を考察することが必要であり、そのこと自体で充分に意義あることと考える。その課題については、今後の重要な研究課題として検討したいと考えている。