1960年代は、世界的に振り返ってもラグビー競技にとって大きな転換期であった。特に、1964年(昭和39)年に改正されたラインアウト形成時のオフサイドライン(10mのスペースを確保)のルール改正によって、今まで以上にオープンプレーを志向するチームが多くなり、戦略的・戦術的に多大な影響を及ぼした。このルール改正は、世界的にもオープンプレーを指向させるための重要なルール改正の条項であった。このルールの改正こそ、現代ラグビーの幕開けの改正内容といっても過言ではないだろう。
これ以後は、表3にも示すようにアドバンテージ適用の拡大やダイレクトタッチの採用、トライの得点増加等、これまでのキック重視のラグビーからハンドリングとランニング重視のラグビーへとプレー上の転換が積極的に試みられた。ルール改正においても“プレーの継続”に関する条項について幾度となく実施された。それまではルールの中に示されていなかったモールプレーについても新たに1967年(昭和43)年に定義された。また、スクラムの条項の中に含まれていたラックが独立して記述されるようになり、さらにラインアウトの規定も行われた。
これらの改正は、プレーへ直接的に影響を及ぼし、戦略、戦術等に多大に影響するルール改正であり、IRFBの現代ラグビーの確立への明確な意図を窺う事ができる。この昭和40年代後半のルール改正によって、ほぼ現在のラグビー形態に近いものが完成されていったといえる。
こうした現代ラグビーの姿が徐々に確立されていくきっかけとなったのは、ラグビーの母国RFUの100周年であり、これを記念した大事業、“世界へ普及する現代のラグビー”を創造するための意図的アプローチがなされたためであった。
英国RFU創立100周年記念のラグビー国際会議、WorldRugbyCongressには、わが国を含めて世界各国から50カ国の参加があった。この会議は、ラグビーが始まって以来IRFBメンバーユニオン以外の世界各国が一堂の会した記念すべき会議であり、これ以後、ラグビーにおける世界的国際交流がますます盛んになり、現在のIRB活動の原点となったと言えよう。また、この会議以後、ラグビー競技におけるIRFBの役割等も明確化され、ルール改正の意図や方法等についても各ユニオンが加盟国として様々に機能するようになっていった。わが国において、IRFBで検討、決定されたルール改正の内容自体がIRFBから直接的に伝達されてくるようになったのは、正式にはこの年からである。
RFU100周年記念ラグビー国際会議開催に先駆けて、当時のIRFBは補助機関として幾つかの重要な組織の創設が実施された。それは1964年にRFUサブコミッティが創設されたことなどから始まり、ラグビー競技に関わるすべての関連事項を補助するための機関として作られたものである。これ以降は、ルール改正の問題や事故防止、安全対策上の問題点などIRFBの中でも重要とされる案件については、このサブコミッティ内では常時、検討されるようになり、その後、各常任理事国の会議によって多くの課題解決に向けて取り組みが実施されるようになった。
さて、日本ラグビー界の流れとしては、1968年(昭和43)年のニュージーランド・オーストラリア遠征において、オールブラックスジュニアチームに勝利をおさめて以後、世界のラグビー界からも日本ラグビーについては、評価を受けた。また、国内では、世界のラグビー環境にいち早く追いつこうとコーチや指導者の養成が積極的に行われた。こうした活動が成果を挙げ、昭和43年から7年間の日本ラグビーは、現在でも日本ラグビー史上、最も世界トップレベルに近づいた時代であった。IRFB常任理事国であるウェールズ協会から正式に遠征の招待を受けた時代であった。
こうした強化策の実績に、追随するようにわが国ラグビーの競技人口は年々増加していった。しかし、その競技人口の増加は、日本特有の学校体育における若年層(特に高校生)の部活動などによる競技人口増加が主要なものであり、不幸にも死亡事故など数々の重傷事故も報告されるようになっていった。特に、高校生を始めとする青少年プレーヤーの重傷事故についても報告がされ、日本ラグビーにおけるプレーヤーの事故防止、安全対策は大きくクローズアップされて、対策が講じられた。
こうした事故防止を含めた安全対策の問題点は、1950年代以降のスポーツ医学の世界的な発展とともに、世界のラグビーにおいても検討、論議されるようになった。そして、プレヤーばかりでなく、指導者をはじめプレヤーをサポートする側の重要な課題の一つとして取り上げられ、特に強調されるようになっていった。表3からも安全対策上のアプローチから、ルール改正が行われたと思われる重要な改正条項が、1967年(昭和42年)に実施された。それは本来、ラグビーではプレヤ─の交代が許されていなかった条項を変更したものであった。負傷退場による戦力の不均衡を防止するために、ラグビーの基本原則を変更し、国際試合での負傷したプレヤーの交替を認める改正が行われた。これは、戦力の不均衡による残り14名のプレヤーへの身体的負荷の増加、外傷発生の予防、さらには負傷プレヤーが無理して競技復帰した場合の重傷外傷を防止するために実施されたルール改正であったものと考える。
また、こうした試合を運営するレフリーに対しても日本協会としての組織的取り組みが実施された。昭和43年には、日本協会がそれ以前のルーリングやルール化されて明文化された過去の情報を整理して、「ルーリングについて」を刊行して、レフリングのレベル向上のために役立てている。ラグビー競技においては、ルール上は明確な基準がなく、各ユニオンで生じたプレー上支障のきたすようなプレーについて、IRFBが見解を示して、解釈されていないプレーの現象について、裁定・説明のような形式をとって、その後のゲームの進行を行っている。これを「ルーリング」と称しているが、毎年のように出されるルーリングの項目についてはこの年代は、ルール化されることも多かった。こうした状況下にある日本協会ではゲームの運営等について、諸問題を整理して今後に役立てる意味で、この「ルーリングについて」を刊行した。15)これ以後も、ラグビー競技における「ルーリング」については、明文化されたルールとは、別の観点で重要な役割を果たしている。
【昭和40年代】(表3)