事故防止対策に力が注がれた昭和40年代の流れを受けて、日本では1974年(昭和53年)から、わが国では、関東、関西協会共に傷害互助会や見舞金制度等の傷害保険制度が確立し、プレーヤーをサポートする体制が強化された。また、重症外傷予防、事故防止のたまに安全対策の取り組みについては、コーチ、指導者、レフリー等にも万全を期すための活動が行われて、その重要性が強調された。
ルール改正の内容いついても、表4に明確に表されているように“プレーの継続と安全”がますますクローズアップされるようになった。特に1975年(昭和50)年以降は、安全対策関連のルール改正が毎年のように実施されるようになり、まさに本格的な安全対策上のアプローチがルール改正においても考慮され、1970年代後半より実施されるようになったと言えるであろう。
さらに安全面からの改正で、スクラムに関するルール改正も非常に多く実施されたことは特徴の一つといえる。これは、明らかにスクラムが崩れた場合の頚椎損傷等の重症外傷防止の観点から安全対策上実施された改正であると考える。また、タックル後のプレーに対しても規制されるようになった。これは、“プレーの継続と安全”つまり、ボールの動きを停滞させるパイルアップの形成防止と、地面等に横たわる事で生ずるプレーヤーの危険性の双方を考慮したルール改正であると思われる。
世界的なラグビーの安全対策の取り組みも急速に発展し、1975年(昭和50)年の国際会議からはラグビーの医学的アプローチの世界的交流も正式に実施され、薬物の取扱等についてはIRFBへ働きかけることも行われるようになった。
一方、ルール改正の検討についても、IRFBの会議により、世界的にもルールの迅速な情報整理や翻訳化も組織的に実施されるようになった。わが国においても、こうした取り組みは同様であり、1976年(昭和51年)度のルールブックからは、競技規則の巻頭でその年度のルール改正の大要について、わかりやすく整理して、項目別に記述している。この取り組みは、2003年(1999年、2000年は中断)まで継続され、日本協会においては、ルール委員会などが組織的に機能し、IRFBが発信するラグビールールの翻訳、整理、伝達という明確な役割を担って、定期的で継続した活動を実施してきた証とも言えよう。
IRFBでは、1978年にフランスが常任理事国入りし、主要8ヶ国となった。IRFB補助機関であるルールコミッティやメディカル・アドバイザリー・コミッティ総会も組織されて活動が実施されるようになり、正式なIRFBサポート機関が設置された。スポーツ医科学の発展と相俟って、明らかにIRFBがラグビーにおける安全対策の重要性を強調したことの現われであった。
こうしたIRFBの補助機関の勧告を受けてラグビーに関わる様々な検討事項が論議されるようになり、世界各国に伝達されていく体制が確立した。このことが、日本や世界のラグビーへ与えた影響は大きく、現代ラグビーにおける安全対策の重要性を再認識させるために、よい結果に結びついていったと考えてよいであろう。このことが、日本や世界のラグビー界に与えた影響は甚大であり、現代ラグビーにおける安全対策の重要性を総てのラグビー関係者へ再認識させ、世界各国で様々な安全対策活動が充実していったものと考えられる。
これ以後、1980年代にはいると日本でも、スポーツ医科学的視点や安全対策上の取り組みは、コーチや指導者の立場からもアプローチされるようになり、教育・指導用のフィルム・ビデオの制作等も積極的に行われるようになった。18)ルール改正でも1983年(昭和58年度)に、わが国独自で、19歳未満(高校、高専対象)のラグビーにおける負傷事故を減少させる目的で国内特別ルールも実施された。世界的には1984年(昭和59年)の脳震盪を起して退場したプレーヤーに対する措置についてであり、これはプレーヤーのプレー以外のところでも安全面の配慮を実施することをルールにおいて規定したものであった。この改正の内容は、メディカル・アドバイザリー・コミッティが直接勧告し規定されたルール改正であった。これ以後、明らかに安全対策上の観点からIRFBへのルールの改正の勧告が再三行われ、毎年のように数多くのルール改正が実施されている。わが国においても事故防止委員会から安全対策委員会に改名されて、国内特別ルールの採用や青少年への安全の確保等のルール改正が実施された。
まさにこの十年は、安全対策の取り組みとともに、現在のラグビー競技の姿、スポーツ競技としての世界的な発展が示された時代といっても過言ではないだろう。
【昭和50年代】(表4)