昭和3年豪州遠征から帰国した
早大戦に勝利した
東大の守屋博が卒業後大学の医局に在籍していると各大学の選手が怪我や病気で
東大病院を訪れるようになった。
日本協会が発足し神宮競技場での協会主催の大学対抗試合も始まり、そのまま放置するわけにもいかなくなり、当時の田辺理事長と香山書記長は守屋医師に医務委員会を作るよう要請し、スポーツ医学の草分けであった斉藤一男(
東大OB)等と委員会をつくり、神宮の試合には必ず救護班を出すことにしたことが医務委員会のスタートとなった。
京大の複数の選手が結核に罹患する事があり、守屋博は結核初感染学説を取り入れて厳重な健康管理を行うこととして、文部省のスポーツ医学相談所の協力を得てシーズン初めに対抗選手は全員直接撮影で健康管理を行い、その後そのような悲劇の再発を防止することができた。これは現在の集団検診の草分けであり、更には人間ドックに発展していくことの基礎となった。
その間、競技中に重症事故(スクラムでの急死、頚椎骨折など)が起きたことなどから、協会は調査委員会を作り前後の事情について詳細な記録(臨床的のみならず剖検例もあり)を作成し保存するというスポーツ界として先例をつくり、いまでも継続して完全な記録として保存されている。これらの事故を防ぐためにラフプレーを禁止するとか、スクラムの組み方を指導するなど様々な工夫した。(協会50年、機関誌より転用)
また、1930年医師として初めて
日本代表選手に選出された桜井凱夫(
東大OB)の
カナダ遠征や1936年木村潔による「NZ大学ラグビー選手身体検査成績」研究論文が発表されるなど協会と医師とは古くから係わりを持っていた。しかし、その後第2次大戦前後の医務委員会としての活動を伝えているものが少ない中で昭和21年には水町四郎(
東大OB)が「ラグビーと健康管理」について機関誌に連載し、また昭和35年には「健康管理と災害の予防」と題し“栄養からタックルの仕方”まで幅広い内容の講習会を実施していたことが機関誌から窺われた。
地域協会の医務委員会活動のスタート(関東協会はメディカルソサエティと、九州協会はメディカル委員会と称す)
関西協会医務委員会:第28回(昭和24年)ラグビー大会は学制改革に依る新制高等学校大会の第1回であったが種々の事情から秩父宮ラグビー場で開催されたが、第29回(昭和25年)全国高等学校ラグビー大会は再び西宮球技場に還った。この大会でのグラウンドドクター派遣対応等が話題となり、当時の関西ラグビー協会理事の辻良男が京都の福知善雄(大阪医大OB)、大阪の木崎国嘉(
京大OB)、兵庫の桑原昌(大阪医大OB)の3医師にグラウンドドクター派遣等について要請したことで関西ラグビー協会医務委員としての活動が始まり、初代委員長に木崎国嘉が就任した。次いで村田保男(
日大OB)が就任し、関西協会安全対策委員長の土岐一郎とともに高校生のヘッドギヤ装着義務化に取組み、第56回(昭和52年)全国高等学校大会より義務化が実施される運びとなった。以後、スクラム2段階方式や1.5mなど国内高校生ルールについても発信の場となっている。その後、委員長は劉善夫(大阪医大OB)、山田順亮(
名大OB)に引き継がれ、総務部、学術部、救護対策部の3部門を中心として運営しており、現在は外山幸正(関西医大OB)が委員長として高校生のマウスガード装着義務化や高校生を対象としたアンチドーピングに取組み、ドーピング検査も2002年1月に初めて実施しており、また2府20県にわたる広域での主要試合年間約1,000試合に対しマッチドクターの派遣を行っている。
関東協会メディカルソサエティー:予てから秩父宮等の試合の救護を大学ラグビー部OB等の医師が医務委員として担当してきたが、海外の協会の医務の状況やスポーツ医学の進歩等から協会内に医師を中心とする委員会を作り、試合時の救護だけでなく医学的な見地からの安全、普及、強化への働きかけをすべきとの機運が高まり、高澤晴夫(横浜市大OB)を中心に在京の関東医歯薬リーグ加盟の医学部OBで準備委員会を発足させ準備に入った。委員会規約を作成し、顧問、総務委員を置き、傷害安全管理、救急医療、医師派遣、学術の各委員会からなるメディカルソサエティーを組織し、1983年(昭和58年)度に関東協会メディカルソサエティが発足し、初代委員長に高澤晴夫が、事務局長には米沢博(慈恵医大OB)が就任し、当時の関東協会斎藤尞理事長、綿井永寿書記長、小林忠郎等の協会役員諸氏も各部署に加わり、協会内における他委員会との連携強化を図ることとした。また、関東協会傘下の都道県協会の医務担当者、医学部整形外科医局、医歯薬リーグOB会等にメンバーを募ったところ、450名に及ぶ委員希望者を数え、夫々各委員会に振り分け、関東以北の各都道県における他に類をみない大規模なラグビー医師ネットワークを構築することができた。その後、1988年に歯科委員会を設置し現在の体制となっている。事故防止と安全対策の観点から、
日本協会からの委託業務として「安全対策マニュアル」(1986年)および「ラグビー外傷・障害ハンドブック」(1999年)を作成し、各チームに対する事故防止の啓発活動を行ってきた。その後、委員長に関東協会理事丸山浩一(慈恵医大OB)、事務局長に古谷正博(
日本医大OB)が就任し、年間約1,800試合にマッチドクターを派遣しており、また関東代表チームの海外遠征にも帯同医師を派遣するなどの取組みを行うと同時に次代の医務委員を担う若手医師の確保・育成にも注力している。
九州協会メディカルソサエティ:設立については、昭和63年7月に東京で開催された
日本メディカル設立準備委員会に九州協会を代表して九州協会中田主基理事長と成田陽二郎(久留米医大OB)が出席し、
日本協会より3地域ならびに各県協会にメディカルソサエティを早急に発足・整備するよう要請を受けたことに端を発する。先ず九州で最もラグビー人口の多い福岡県協会においてメディカルソサエティが同年10月に設立され、第1回総会が開催された。これに並行して他の県でもメディカルソサエティの設立準備は着々と進み、平成元年3月に九州協会メディカルソサエティ発足準備委員会が開催された。翌平成2年3月には第1回九州協会メディカルソサエティ総会(発会式)が開催され、委員長に鈴木良平(
東大OB)が、副委員長に美原恒(慶応義塾OB)、成田陽二郎(事務局長を兼任)、と協会側から藤井浩一が就任して正式に発足、活動を開始した。
委員長は美原恒、永田見生(久留米医大OB)に引き継がれ、事務局長の東原潤一郎(慈恵医大OB)は九州協会の理事として他の委員会との調整を図りながら現在年間約1,500試合を対象にマッチドクターを派遣している。現在、メディカル委員会は総務委員会、歯科委員会、アンチドーピング委員会、事務局により構成されている。