上三川町デジタルアーカイブ

上三川の歴史

今に残る上三川の歴史

市街地の大通りを南へ進むと、大きな岩を組み合わせた石造物が見えてきます。
この大きな凝灰岩の一枚岩を組み合わせて作られた石造物がいったい何なのか、おわかりになりますか?
実は、今からおよそ1500年前の古墳時代に作られた古墳の石室です。
石室とは、古墳に亡くなった人を埋葬するために石で作られた部屋のことです。
その大きさは、奥行4メートル、幅2メートル、高さ2メートルです。
すでに墳丘は残っていませんが、もとは全長40メートル、高さ4.5メートルの円墳で、2段に塚を盛り上げて造られたその姿が兜に似ていたことから「かぶと塚」と呼ばれていました。
このタイプの石室を持つ古墳は、近隣地域に多く見られることから、このあたりを治めていた首長同士が、互いに交流していたことがわかります。
奈良の石舞台古墳のように石室がむき出しのその姿は、さながら「上三川の石舞台」といえます。

この遺跡は、宇都宮市と上三川町にまたがって存在する遺跡で、長い間寺院跡と考えられていました。
実態解明のために平成7年から行われた発掘調査の結果、7世紀後半から9世紀にかけて営まれた古代の役所跡であることがわかりました。
発掘調査では、当時の人々の名前を刻んだ瓦が約2,300点見つかりました。
古代の役所跡でこのような人名瓦が出土することは他に類を見ないことから、平成15年に国の史跡に指定されました。
遺跡の広さは、東西250メートル、南北400メートルで、堀立柱建物跡を中心に90棟を越える建物跡が確認されています。
様々な儀式を執り行った「政庁」や、税として集めた米を保管した「正倉」と呼ばれる倉庫が規則正しく建てられていました。
遺跡の南東側には、古代の幹線道路のひとつ「東山道」の痕跡が確認されています。
この場所が都と地方を結ぶ要所であったことがわかります。

鎌倉時代以降、上三川町一帯は宇都宮家が治めていました。
上三川城は、その領土南端の守りの要として建長元年、1249年に築かれ、宇都宮城主宇都宮頼綱の次男横田頼業が初代城主に命じられました。
途中、城主の交代劇がありましたが、最後の城主14代今泉高光まで約350年間続いたお城です。
お城というと立派な天守閣のような建物を想像するかもしれませんが、上三川城には天守閣はありませんでした。
記録が残っていないため詳しいことはわかりませんが、この頃のお城にはいくつのも平屋の館が立ち並んでいたと考えられています。
慶長2年、1597年、同じ宇都宮家の一族真岡城主の芳賀高武が突如、上三川城へと攻め入りました。夜襲を受けた上三川城は、一夜にして落城してしまいました。
お城のあった場所には、土塁と堀が当時と変わらぬ姿で残されています。
現在、城跡は公園へと姿を変え、住民憩いの場となっています。

市街地の中心部、ひときわ目を引く古い建物があります。
ここは「生沼家住宅」と呼ばれる大正時代の古民家です。
生沼家は、江戸時代から約300年の歴史を持つ商家です。
およそ3,000平方メートルの敷地には、国の登録有形文化財となっている「主屋」と「土蔵」のほかに、昭和30年代に東京より移築された「茶室」、大谷石作りの「石蔵」が建てられています。
主屋と土蔵の建築年代は不明ですが、大正3年、1914年に主屋、同9年、1920年に土蔵が改築された記録が残されています。
生沼家は、肥料商や質屋業で財産を築く一方、私財を投じて町への電力導入に尽力し、町の近代化に大きな影響を与えました。
生沼家に残された明治期の銅版画には、当時の生沼家の様子がよく描かれています。
ここには、近代上三川の面影が残されています。