(3)国内線空港として存続へ

 大阪国際空港は、航空機騒音公害がもっとも酷かった1960年代~1970年代、川西市をはじめとする周辺自治体は「廃止」「撤去」を主張していたが、国の意向はあくまでも「存続」だった。

 1969年(昭和44年)3月、「航空機騒音防止法」(1967年<昭和42年>8月公布)に規定された共同利用施設として、川西市における第1号「東久代会館」が完成した。川西市が国と県の補助を受けて建設した共同利用施設は、下表の15施設である[注11]。

表01-03 川西市における共同利用施設
会館名 所在地 完成年月
①東久代会館 東久代2丁目 1969年 (昭和44年) 3月
②久代会館  久代2丁目 1970年 (昭和45年) 3月
③久代春日会館 久代3丁目 1971年 (昭和46年) 3月
④東久代春日会館 東久代1丁目 1972年 (昭和47年) 3月
⑤加茂会館 加茂3丁目
⑥西久代会館 久代4丁目 1973年 (昭和48年) 3月
⑦下加茂会館 下加茂1丁目
⑧南花屋敷会館 南花屋敷3丁目
⑨加茂第二会館 加茂1丁目 1974年 (昭和49年) 3月
⑩南花屋敷中央会館 南花屋敷4丁目 1975年 (昭和50年) 2月
⑪北久代会館
(「久代サービスセンター」と併設)
久代2丁目 3月
⑫栄根会館 栄根1丁目 1976年 (昭和51年) 3月
⑬寺畑会館 寺畑1丁目 1977年 (昭和52年) 3月
⑭小花会館 小花2丁目 1978年 (昭和53年) 3月
⑮鶴寿会館
(「老人憩いの家・鶴寿会館」と併設)
小戸2丁目 1986年 (昭和61年) 3月

 

 これらと並行して、「航空機騒音防止法」に基づき、川西市立の小・中学校などの教育施設の防音工事も、下表のとおり進められた。

表01-04 川西市立の小・中学校などの教育施設の防音工事
施設区分 学校園・保育所・公民館名
中学校 2 川西南、川西
小学校 6 久代、加茂、加茂西、川西、桜が丘、川西北
幼稚園 6 久代、加茂、ふたば、川西、桜が丘、川西北
保育所 4 川西南、加茂、川西、小戸
公民館 1 川西南

 

 1974年(昭和49年)3月には、「航空機騒音防止法」が一部改正され、国による空港周辺対策が拡充され、「大阪空港周辺整備機構」が設立。対象となる市民の住宅防音工事、移転に対する補償などが進んだ。

 同年8月には、運輸省が設置した航空審議会によって第1次答申『関西空港の規模と位置について』が出された。答申主文では「大阪国際空港の騒音問題の抜本的解決をはかることが喫緊の課題であり、したがって新しい空港は、大阪国際空港の廃止を前提として、同空港の機能を代わって受け持つ能力のあるものとしなければならないと認識した」と記述された。関西の新しい国際空港は「大阪国際空港の廃止」を前提として、その機能・能力を考えるという内容であり、この答申の主眼は、「大阪国際空港の廃止」そのものを確定することではなかった[注13]。

 1970年代後半から1980年代にかけて、防音工事の進展、移転の促進、ジェット機そのものの騒音低減、離発着の改良による騒音低減など様々な対策によって、航空機墜落事故の危険性は残るものの航空機騒音公害に関しては改善が重ねられた。

 1980年(昭和55年)6月・7月には、国と伊丹第1次~第6次と、大阪の各グループとの間で、それぞれ調停が成立する。空港の存続は、運輸省が調査して、地元意見も聴き、それらを踏まえて運輸省が関西国際空港開港までに責任をもって決定するという内容で、「廃止」も「存続」も明示はないものであった[注03]。

 この調停を受けて、運輸省は、1983年(昭和58年)から1989年(平成元年)まで、「大阪国際空港のあり方に関する調査」を実施した。空港需要予測、利用者・住民の認識度分析、海外事例調査などが調査内容だった。中でも、1989年(平成元年)11月に公表されたアンケート調査結果は注目を集める結果となった。概要は次のとおりだった[注14]。

表01-05 アンケート調査結果
調査対象 空港周辺8市の4,500人と騒音区域外の1,500人
回収率 49.6%
調査結果 ◆WECPNL(航空機騒音のうるささを評価する指数)95以上の第三種区域
※「環境対策など必要な周辺対策を進め現空港も残し活用」(以下「存続」)  27.2%
※「環境問題に配慮するため便数を減らすなど空港機能を縮小すべき」(以下「縮小存続」)  21.4%
※「近畿圏の空港需要の動向を見ながら新空港の能力を考慮して現空港の存続または廃止・移転を考えるべき」(以下「決定先送り」)  14.7%
※「新空港が開港した場合は廃止すべき」(以下「廃止」)  21.3%
◆WECPNL(同上)90以上の第二種区域
※「存続」     35.0%
※「縮小存続」   17.8%
※「決定先送り」  13.6%
※「廃止」     14.5%
◆WECPNL(同上)75以上の第一種区域
※「存続」     42.4%
※「縮小存続」   17.8%
※「決定先送り」  15.0%
※「廃止」      9.4%
○騒音区域外
※「存続」     50.0%
※「縮小存続」   10.7%
※「決定先送り」  14.8%
※「廃止」      6.3%
【備考】無回答・その他を除く

 

 1990年(平成2年)2月、川西市の「南部協」は、運輸省に対して、このアンケート結果を受けて、空港の「存続」を前提としたまちづくりや騒音対策を求める申入書を提出する。住民団体としては初めての「存続容認」の意思表明となった。航空機事故の危険性は変わらないが、住居移転や防音工事などの様々な騒音対策が進んだこと、国民総体としての航空機需要が増大したことなどの要因によって、市民の騒音公害反対運動が始まった1964年(昭和39年)から四半世紀近くが経っての変化だった[注15]。

 1990年(平成2年)4月、運輸省は、これらの調査を総合的にとりまとめた調査報告書を地元自治体・調停団・市民団体などに開示し、意見を求めた。同年6月には調停団から「存続を容認」、7月には、川西市議会が存続を決議し[注16]、11市協、大阪府、兵庫県から「存続を希望」の意見書がそれぞれ提出された[注17]。

 1990年(平成2年)11月、調停団と運輸省は「大阪国際空港の今後の運用及び環境対策に関する協定」[注18]に、同年12月、11市協と運輸省は「大阪国際空港の存続及び今後の同空港の運用等に関する協定」[注19]に、それぞれ調印する。通称「存続協定」と呼ばれるこれらの協定を踏まえて、「大阪国際空港を国内線の運用に限定して存続させる」という形で、空港の存続が正式に決まった。また、「存続協定」によって、ジェット機の発着回数は、200回に制限された。

 そして、4年後の1994年(平成6年)9月、大阪府南部の泉州沖の海上空港として「関西国際空港」が開港した。