(1)着工までの経緯

 太平洋戦争前から、猪名川の「治水」は、猪名川流域住民にとって大きな課題であった。戦後も何度かの大水害が起きたことに加えて、流域の産業の発展や人口の増加による「利水」という課題も生じてきた。そこで、建設省猪名川工事事務所は、1960年(昭和35年)から、治水と利水の両面を考慮したダム調査を開始する。その結果、建造目的を治水ダムから治水・灌漑(かんがい)・生活用水の多目的ダムへと発展させ、建造計画地を川西市虫生地区から大型多目的ダムを造れる川西市一庫地区へと変えて、進めていくことになった[注01]。

 1966年(昭和41年)1月、建設省猪名川工事事務所長から小笠原市長を通じて地元の一庫・国崎・横路・黒川地区に対して、「一庫ダム地点予備調査立ち入り」の申し入れがなされた。4地区にとっては「寝耳に水」の出来事であり、直ちに「一庫ダム反対期成同盟」を結成して、同年3月145人の署名を添えた撤回嘆願書を建設大臣等に提出するに至った。川西市発行『かわにし 川西市史』第3巻(昭和55年)に沿って、1966年(昭和41年)から1976年(昭和51年)の着工までの経緯を、次の年表で簡単に振り返る[注02]。

表02-01 着工までの経緯
年月 内容
1966年 (昭和41年) 7月 小笠原市長の再三の斡旋(あっせん)により、地元代表と建設省・兵庫県関係者との懇談会を開催。予備調査の実施について地元として協力を決定[注03]
1968年 (昭和43年) 2月 予備調査結果報告会を開催。予備調査で、「一庫地先にダム建設が可能である」との結論が出た旨を説明
3月 建設省近畿地方建設局から川西市に対して、一庫ダムの実施と、実施のための立入調査の地元調整を申し入れ
水資源開発審議会が一庫ダム建設計画を総理大臣に答申
6月 基本計画決定。淀川水系における水資源開発基本計画の一部変更として、一庫ダム建設事業を追加することを官報で告示。事業主体は水資源開発公団
8月 水資源開発公団が一庫ダム調査所を設置。建設省・水資源開発公団が地元説明会開催し正式に協力を申し入れ。ただし、この時点では、地元説明会は不調に終わった[注04]
「一庫ダム建設絶対反対期成同盟会」(西村九市 委員長)結成
10月 建設大臣が一庫ダム建設に関する事業実施方針を定める
12月 建設省が一庫ダム新築工事開始公告
1969年 (昭和44年) 3月 川西市が水没する地域の住民の移転用地として公共用地先行取得に着手。川西市は、北部・中部の大規模宅地開発が進んでおり、被害者かつ受益者という立ち位置にあり、移転の促進のために移転用地の確保を実施
4月 川西市が一庫ダム対策室を設置
6月 水資源開発公団が一庫ダム建設所を開設
7月 伊藤市長が県及び公団に対して、補償等に対する意見書を提出
8月 川西市が東畦野の田地約39,000m²を買収し、移転用地として確保
10月 反対期成同盟会役員対象の説明会を皮切りに、国崎、黒川、一庫の各地区対象説明会を11月まで開催
11月 水資源開発公団が反対期成同盟会と地元4自治会に対して、立入調査を申し入れ
1970年 (昭和45年) 3月 反対期成同盟会が水資源開発公団に対して、協定案を提出。以降、基本協定書調印まで30数回の協議
7月 基本協定書調印[注05]
「一庫ダム建設絶対反対期成同盟会」は「一庫ダム対策委員会」として再発足
11月 立入調査開始。基準点、湛水線(たんすいせん)、河川縦横断など測量
1971年 (昭和46年) 3月 覚書調印
10月 対策委員会が公共補償要望書を伊藤市長に提出
1972年 (昭和47年) 4月 対策委員会が要求書を市・県・公団に提出
12月 水資源開発公団が川西市から代替用地を取得。26戸が集団移住
1973年 (昭和48年) 7月 一筆地立入調査に関する協定書に調印
9月 水没地の一筆地調査(用地調査)開始
1974年 (昭和49年) 7月 一庫ダムが水源地域対策特別措置法に基づく指定ダムに
1975年 (昭和50年) 1月 水資源開発公団が「一庫ダム建設に伴う損失補償基準」を発表
8月 「一般損失補償基準」妥結調印
1976年 (昭和51年) 12月 ダム建設着工