1976年(昭和51年)12月、一庫ダム建設工事が始まる。1979年(昭和54年)3月には本体工事(コンクリート打ち込み開始)が始まり、同年10月に定礎式を行った。伊藤市長は式典で、「ダム建設は私の市長就任以来の重要な問題で、ようやく定礎式の運びとなって喜ばしいです。しかし、この裏には水没農家を初め地元住民の尊い犠牲があることを考え、感謝と同時に阪神間の水がめとして待たれている現状から一日も早くの完成を願います」とあいさつした。
その後、1981年(昭和56年)10月には、本体コンクリート打ち込みを完了し、1982年(昭和57年)3月から貯水が始まり、同年4月に竣工(しゅんこう)式を迎えた。川西市にとっては、1966年(昭和41年)1月の「寝耳に水」の予備調査申し入れから数えて16年の歳月を経た一庫ダムの完成の日となった。伊藤市長は式典で、「このダムによって何物にもかえがたいふるさとや祖先伝来の田畑、山林を提供してくださった水没地権者の方々の気持ちを思うとき、地元市長として手ばなしで喜べません。ご協力くださった方々に、あらためてお礼を申し上げるとともに、感謝の気持ちをいつまでも忘れられません」と述べた。また、式典後に、報道関係者のインタビューに答えて、「この10数年はダムと共にあゆんだと言っても過言ではない」と述懐した[注06]。完成した一庫ダムの概要は次のとおりである[注07]。
| 総事業費 | 638億円 |
|---|---|
| 形式 | 重力式コンクリートダム |
| 高さ | 75m(基礎岩盤上) |
| 堤頂長 | 285m |
| 総貯水容量 | 3,330万m³ |
| 満水面 | 1.4km² |
| 洪水時満水位 | 海抜152m(基礎岩盤から73m) |
| 常時満水位 | 海抜149m(基礎岩盤から70m) |
| 最低水位 | 海抜108m(基礎岩盤から29m) |
一庫ダムの建設によって水没したのは、国崎26戸、一庫5戸、豊能町1戸の合計32戸の住居をはじめ、神社1、寺院1、発電所1、公民館1、宅地7.66ha、田畑16.87ha、山林104.91haなどで、道路の付け替えは、国道5.6㎞、県道5.8㎞、その他市町村道や林道に及んだ[注08]。
ダム建設によって、区域の土地水没という大きな影響を受ける国崎地区に関しては、1975年(昭和50年)3月に緊急民俗資料調査報告書『国崎』が刊行された。これは、1974年(昭和49年)6月から、川西市教育委員会が甲南大学の和田邦平教授を団長とする調査団に国崎の民俗資料の調査を依頼して出来上がった報告書であった[注09]。また、国崎地区の民家のうち、市が文化財として指定し、保存を決めていた2棟の江戸時代の民家は、「歴史民俗資料館」として、美山台3丁目へ移築・復元することになった。同じく、市が文化財として指定した宝篋印塔1基は、東畦野に移転した慶昌寺境内内に移設された[注10]。
1977年(昭和52年)3月には、黒川小学校が休校となった。1873年(明治6年)に徳林寺内に仮校舎が創設され、1875年(明治8年)5月に村の人々の手によって新築の独立校舎ができる(黒川地区・黒川小学校では、この年を開校年としている)という、川西市の教育の歴史の中でも歴史と伝統のある小学校であり、教育委員会では、将来再び開校できることを願って廃校ではなく休校とした。校舎は、東谷公民館の分館として、黒川地区の地域文化振興の拠点として活用することになった[注11]。