川西市の表玄関と称される、阪急電鉄川西能勢口駅の周辺は、阪急電鉄宝塚線、能勢電鉄妙見線、国鉄福知山線(現JR宝塚線)、阪急バスなどの公共交通や南北の幹線道路が集中している地域である。1954年(昭和29年)8月の市制施行以来、市の中心市街地として発展してきた。
市制施行時に33,741人だった市の人口は、昭和30年代以降、日本経済が高度成長期に入ると急激に増えていき、1972年(昭和47年)12月には10万人を超えた[注01]。昭和30年代(1955年~1964年)ごろまでの人口増加の中心は、交通の便が良かった市の南部だったが[注02]、昭和40年代(1965年~1974年)になると、その中心は、民間開発業者による大規模住宅開発が次々に計画・実施されていく市中部・北部へ移っていった[注03]。
その結果、鉄道、バス、自動車が集まる交通結節点である川西能勢口駅周辺の役割は、より一層、大きくなっていった。ところが、駅周辺の地域では、急激な発展による住環境の悪化、都市機能の低下、都市基盤整備の遅れといった多くの課題が生じていた。具体的には、昭和30年代前半に建築され老朽化した住宅や建築基準法に適合しない狭く小さな住宅の密集、市の中部・北部の民間住宅開発による道路交通量の増加、人口増に見合った商業施設の不足、道路と鉄道の平面交差がもたらす朝夕の「開かずの踏切」による交通渋滞、道路や駅前広場をはじめとする公共施設の未整備などだった[注04]。
そこで、市では、1974年(昭和49年)3月、『川西能勢口駅周辺都市整備計画基本構想』を策定(同年4月に冊子発行)する。策定作業では、国や県の職員、都市計画分野の大学教授などの協力も得て、「駅周辺都市整備計画委員会」を設立し、市内外の叡智を集めた。都市整備の基本構想を策定して市街地再開発事業を進めるという手法は、当時、全国の自治体の「先駆け」となる取り組みだった。他の自治体でも、まず再開発の基本構想を策定して、それを元に事業を進めていくといった川西市の進め方を取り入れるようになっていく[注06]。この基本構想は、市議会にも報告して成案となり、以降の市街地再開発事業等を進めていくうえでのベースとなった[注07]。
基本構想は、駅周辺の38haを対象地域としており、「人口増加によりマヒしかけている駅周辺の都市機能に秩序を与えるため、駅周辺の交通体系と周辺の整備により有効な土地利用の実現を図ろうとした」[注08]ものだった。ただし、対象地域38haの全体は、市街地再開発事業を進めるには広すぎたので[注09]、これをA~Gの7つに区分し、それぞれに土地利用構想と整備方針を立てて、市街地再開発事業などを積極的に進めることにした。
併せて、都市計画道路「川西猪名川線」などの南北幹線道路整備事業、阪急電鉄宝塚線・能勢電鉄妙見線の連続立体交差事業も推進することによって、駅周辺の駅前広場をはじめとする都市基盤の整備、交通利便性の向上、防災面での課題解消などを図ることとした。