第8章 注

[注01]

 川西市発行『川西創生記50 川西市制施行50周年記念誌』(2004年)p15を元に記述

[注02]

 川西市発行『かわにし 川西市史』第3巻(昭和55年)p527~535を元に記述

[注03]

 『かわにし 川西市史』第3巻p546~548を元に記述

[注04]

 川西市発行『未来・快適・空間 川西市の再開発』p2、『川西能勢口駅周辺都市整備計画基本構想』(1974年4月)p11などを元に記述

[注05]

 写真は川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」から転載

[注06]

 当時の再開発部・横島部長からの下記の聞き取りを元に記述
 ➡当時、国にも、このような事業の進め方に対する補助制度はなかったようだが、川西市の事例を参考に、「再開発事業を進めるためにはベースになる基本構想の策定が必要だ」と認識された。この事例をきっかけに作られた構想をつくるための補助制度が今も各地で使われている。川西市がその「先駆け」となった。

[注07]

 当時の再開発部・横島部長からの下記の聞き取りを元に記述
 ➡策定された構想は、市議会に報告してオーソライズされた。「市として、今後の駅周辺開発は、この構想を基本にして進めていく」とう方針を機関決定したことが大変重要であったと思う。再開発への筋道をつくることが大事で、川西市で街づくりの基本的な手続きが実施されたことは、素晴らしいことだと思う。市議会でも地元でも、再開発事業の説明をする際には、まず基本構想から話を始めていくと事業の重要性が理解されると思う。
 【補注】市の基本構想案は、「川西市駅周辺都市整備計画委員会」の審議を経て、市議会への説明の後にまとめられ、『広報かわにし』第280号(昭和48年12月1日号)p1で公表された。

[注08]

 『川西能勢口駅周辺都市整備計画基本構想』p11を元に記述。ちなみにこの時のスローガンは「川西市の顔をつくろう能勢口に」というものだった

[注09]

 当時の再開発部・横島部長からの下記の聞き取りを元に記述
 ➡再開発は大きく計画すると、事業費が膨大になり事業化が困難になる、権利者が多くなりすぎてまとまらないので、できるだけ小さく計画していくことにした。他市の事例を見ても、だいたい1ha前後で事業を行っていた。

[注10]

 川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」から転載

[注11]

 小花新町地区市街地再開発組合発行 『21世紀の扉を開けるニューシティ 小花新町地区第一種市街地再開発事業 概要』の事業のこれまでの歩みを元に記述

[注12]

 『川西能勢口駅周辺都市整備計画基本構想』p110の表を元に、p109の記述を追記

[注13]

 『かわにし 川西市史』第3巻p540~542、川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」を元に記述

[注14]

 川西市再開発室発行『川西市再開発事業誌』(1990年3月)p86~87を元に記述

[注15]

 同上

[注16]

 兵庫県阪神都市整備局発行『都市計画事業 川西能勢口駅付近連続立体交差事業 阪急電鉄宝塚線・能勢電鉄妙見線 17年の歩み』p29~30を元に記述

[注17]

 1954年(昭和29年)8月の市制施行時の人口が33,741人だったが、1972年(昭和47年)12月には約3倍の10万人、1996年(平成8年)9月には4倍を超える15万人までに増加

[注18]

 『川西能勢口駅周辺都市整備計画基本構想』p67~84を元に記述

[注19]

 事業認可は次のような変遷をたどった

(1)1980年(昭和55年)10月の事業認可
  ◆施行主体:兵庫県
  ◆事業区間:阪急電鉄宝塚線 L≒1,040m(高架部743m)
        能勢電鉄妙見線 L≒ 889m(高架部613m)
  ◆事業施行期間:昭和55年度~昭和61年度
  ◆事業費:225億円
(2)1987年(昭和62年)3月の事業計画変更認可
  ◆施行主体:兵庫県
  ◆事業区間:阪急電鉄宝塚線 L≒946m(高架部771m)
        能勢電鉄妙見線 L≒889m(高架部613m)
  ◆事業施行期間:昭和55年度~平成5年度
  ◆事業費:310億円
(3)1994年(平成6年)3月の都市計画事業認可変更(期間延伸)
  ◆施行主体:兵庫県
  ◆事業区間:阪急電鉄宝塚線 L≒946m(高架部771m)
        能勢電鉄妙見線 L≒889m(高架部613m)
  ◆事業施行期間:昭和55年度~平成9年度
  ◆事業費:441億円
[注20]

 この事業は、都市計画決定から17年後の1997年(平成9年)11月に完成。総事業費は440億円超

[注21]

 川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」、『川西創生記50』の年表p17、『都市計画事業 川西能勢口駅付近連続立体交差事業 阪急電鉄宝塚線・能勢電鉄妙見線 17年の歩み』p27を元に記述

[注22]

 駅前広場に隣接する立体駐車場「228パーキング」は、1995年(平成7年)6月にオープン

[注23]

 写真は川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」から転載

[注24]

 『未来・快適・空間 川西市の再開発』p6~7を元に記述

[注25]

 株式会社パルティ川西発行『株式会社パルティ川西の歩み 会社創立30周年記念誌』(2015年12月)p2の年表を元に記述

[注26]

 各種仏和辞典を参照

[注27]

 写真は川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」から転載

[注28]

 『未来・快適・空間 川西市の再開発』p8~9を元に記述

[注29]

 竣工は1996年(平成8年)3月。翌4月に再開発ビル「パルティK2」がオープンし、「パルティ川西」「パルティK2」の両再開発ビルは一体化する

[注30]

 『未来・快適・空間 川西市の再開発』p10~11及び『川西市再開発事業誌』を元に記述

[注31]

 当時の再開発部・横島部長からの聞き取り内容

[注32]

 写真は川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」から転載

[注33]

 『川西市再開発事業誌』p160~161を元に記述

[注34]

 『未来・快適・空間 川西市の再開発』p13を元に記述

[注35]

 当時の再開発部・横島部長からの下記の聞き取りを元に記述
 ➡「アステ川西」を整備する際に、川西市商工会商業活動協議会から、「行政の責任として2千台の駐車場の確保を」という要請があった。F街区に「優良再開発建築物整備促進事業」の制度を活用して完成した「ビッグ・ボックス川西」で駐車場675台をまず確保した。この事業で立体駐車場をつくったというのは、全国的にも初めての事例だった。これが一つの決め手となった。それでも2千台にならないので、「アステ川西」の地下駐車場、小花パーキング、阪急川西能勢口駅の屋上駐車場、周辺の平面駐車場なども入れて説得した

[注36]

 1990年(平成2年)4月17日付けの神戸新聞では<全国初、国の補助金/再開発で立体駐車場/川西能勢口駅周辺で起工>、読売新聞では<土地信託方式で駐車場建設/国の「事業」始めて適応—川西能勢口駅駅前>といった見出しで、この事業がそれぞれ報道されている

[注37]

 写真は川西市公式ホームページ「駅周辺都市整備計画基本構想など」から転載

[注38]

 『未来・快適・空間 川西市の再開発』p14~15及び川西能勢口駅東地区第1工区市街地再開発組合発行 『夢かなうまち「再開発の歩み」』(2002年11月)を元に記述

[注39]

 『未来・快適・空間 川西市の再開発』p16~17及び『川西市みつなかホールご利用案内』を元に記述。後者の冊子には、「みつなかホール」の名称の由来が次のとおり記載されている
 ➡川西市は、昭和29年8月1日、当時の川西市と多田村・東谷村の3つの町村が合併して誕生しました。この3つ(みつ)の地域の住民が芸術を通していつまでも仲(なか)よく、また、ホールの中(なか)が、いつも優れた芸術・文化や観客で満ち(みち)あふれることを願って、そして、清和源氏発祥の地である本市由来の源満仲(みつなか)にもちなんで“みつなかホール”と名付けられました

[注40]

 1996年(平成8年)4月に全線開通。用地買収や補償交渉を積み重ねた結果、1969年(昭和44年)に都市計画決定されてから27年の歳月を費やした

[注41]

 「川西市住宅地造成事業に関する指導要綱」は、1967年(昭和42年)5月に施行された、日本で最初の宅地開発指導要綱。市の中・北部における大規模住宅団地が造成されていくことによる諸課題に対応するため、開発業者に対して、小・中学校の教育施設や道路の新設・拡張・整備にかかる費用負担等を規定した。ただし、法律や条例のような強制力を持つものではないので、市と開発業者の交渉・協議によって実施された。この取り組みは全国的にも注目され、「川西方式」と呼ばれた

[注42]

 前述の川西猪名川線や川西伊丹線の県事業部分でも、用地買収交渉などは市が行っていった。このため、市の組織として、1989年(平成元年)4月には、土木部に「幹線道路推進担当」が設けられ、1992年(平成4年)4月には、「国県道推進部」が新設された

[注43]

 的場実夫・元副市長から阪神高速道路大阪池田線の延伸に関して下記の聞き取りを行った
 ➡人口が急増し、それに伴う道路整備が整わなかったため、川西市からの車両が隣接する池田市にまであふれていき、どこの道路も大渋滞になるという状態が昭和40年代後半から発生して、池田市でも大問題になった。川西能勢口駅の踏切がネックになっているので、それを避けて池田へと逃げ出していくためだった。そこで両市長で建設省近畿地建に行き、陳情した。

 延伸計画では、池田市だけでなく、猪名川を橋で斜めに越えて、川西市まで延伸道路が入り、さらにまた、猪名川を橋で斜めに越えて池田市に入っている計画となっていた。一級河川の猪名川を斜めに超える道路を造るなど、普通はあり得ない。しかも、川の真ん中に橋脚を建てることは絶対にあり得ないことだった。橋脚を堤防に建てることさえ、なかなか許されないと思われていた。建設省で一番力を持っているのは治水を担当する河川局であって、道路局はその次だった。昔から「川を治めるものは国を治める」からだ。しかも、川西市域で「小花インター」を造った。普通ならば、池田市域の猪名川沿いを北上すれば良い。それをわざわざ川西まで入れているのは、そういう経緯があったからだ。延伸部分が「特定料金」になっているのは、バイパス道路の位置づけだからだ

[注44]

 1998年(平成10年)4月に全線開通

[注45]

 冊子『川西の再開発』をベースに、当時の再開発部・横島部長からの下記の聞き取りを元に記述。なお、最終的な総事業費や財政追加負担等の事業の「影」の部分、「負の遺産」の部分については、第2部以降で詳細に記述する予定
 ➡再開発事業は、小花地区も含め総額で言えば1500億円もの大事業である。その効果としては、まず税収面。固定資産税の収入が再開発前と比較すると大幅に増え、駅周辺では約37倍になった。駅周辺の密集していた狭小住宅が住環境の整った中高層マンションに変わり、駅前広場や幹線道路が整備されるなど中心市街地が大きく変わったのだから、当然と言えば当然だが、川西市の財政収入面から言えば、凄い効果であった。(中略)次には、防災・防火面での効果がある。「火事が起こったらどうする」という懸念があった。未整備だった駅周辺の公共施設も整備できた。再開発前は、川西能勢口駅にも川西池田駅にも駅前広場もなかった。アクセス道路や幹線道路の拡幅も含めて、再開発事業によって整備された。阪急電鉄・能勢電鉄の高架化により幹線道路の交通渋滞などの交通問題が解消され、乗降客の利便性も向上した。川西能勢口駅と川西池田駅はデッキで結ばれ、1日平均3万人から4万人という大勢の乗降客の安全な歩行が保証されている。市民の要望であった百貨店を含む専門的な商業施設や図書館などの公共施設の導入により駅周辺のにぎわいが創設され川西能勢口のイメージが一新された

[注46]

 (株)再開発研究所代表取締役横島毅(全国市町村再開発連絡協議会顧問)「リレー関西・まちなか再生プロの流儀 – それぞれが歩んだまちづくり 第11回:振り向けば、再開発と共に43年(その2)」(2015年11月 公益社団法人全国市街地再開発協会発行『機関誌市街地再開発』掲載)に掲載された表-1 固定資産税収入と補助金は、下表のとおり

固定資産税・都市計画税(単位:円)(斜字は推計)
事業前 事業後
B-Ⅰ地区 1,453,980 27,926,900
B-Ⅱ地区 2,933,000 135,358,000
C 地区 12,732,280 318,902,500
 計 17,119,260 482,187,400

 

市の補助金(単位:円)
補助金 一般会計補助 緊急促進補助
B-Ⅰ地区 277,928,000 0 277,928,000
B-Ⅱ地区 845,500,000 172,000,000 1,017,500,000
C 地区 3,700,760,000 0 3,700,760,000
 計 4,824,188,000 172,000,000 4,996,188,000
※税収は約28倍、約4億6千5百万円(465,068,140円)の伸びなので、補助金は約10年で回収できる計算になる
[注47]

 とりわけ、1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に起きた阪神・淡路大震災では、再開発事業を実施していた結果として被害を抑えることができたが、詳細は行政史Ⅱ以降で記述する