1970年(昭和45年)、「大阪万博 EXPO70 ~人類の進歩と調和~」が開催された昭和40年代中頃から、川西市の人口は急増する。序章や第4章などでも触れたが、市制施行時の1954年(昭和29年)8月1日には33,741人だった市の人口は、それから20年経たない1972年(昭和47年)12月には、約3倍の10万人を超えた[注01]。大規模住宅開発などによって川西市外から市内への急激な人口流入や都市化だけではなく、「職場は大阪や神戸で住まいは川西で」という職住分離の暮らし方が進みつつあることも相まって、市民が暮らす身近な地域における連帯感が少しずつ薄れていく時代を迎えた[注02]。
1978年(昭和53年)8月に行われた市長選挙で、伊藤龍太郎市長が4度目の当選を果たした。このときの伊藤候補の選挙公約の項目に「コミュニティづくり、よりよい地域社会づくり」が掲げられた[注03]。3期目の終盤、1978年(昭和53年)3月に報告が出された『川西市における望ましい地域社会形成のあり方に関する調査研究(報告書)』[注04]を踏まえて、4期目の伊藤市政では、コミュニティ政策が市の重要政策の一つとして確立されることになった。
1980年(昭和55年)4月、市長公室広聴課は「コミュニティ推進担当課」として位置づけられた。同年5月15日発行の『広報かわにし』第451号の第一面には、「よりよい地域社会をめざして/心のふれあいを深めよう/コミュニティづくりの推進」という広聴課発の啓発記事が掲載され、取り組みが本格的に始まる。『広報かわにし』は、この記事以降、特集記事「コミュニティ活動で住みよい街づくり」を1980年から1991年までの12年間に渡って、順次掲載し、市内各地域での動きや活動、コミュニティ推進に関する考え方などを紹介していった[注05]。
川西市のコミュニティ政策は、市内各地域で住民が主体となって、「コミュニティ推進協議会」を設立して、自主的な活動を展開してもらおうとするものだった。地域には、自治会をはじめ、福祉委員会、体育振興会、子ども会、老人クラブ、婦人会、PTA等々の組織があり、それぞれの目的で活動を展開していた。しかし、地域としての統一的なまとまった活動や相互の連携が薄い状態だった。そこで、地域で活動する各組織ができる限り(地域によってはマンション管理組合やNPOも)集まって、地域をネットワークする組織であるコミュニティ推進協議会をつくり、相互の連携を強めていくことをめざす政策を推進した。
コミュニティ推進協議会は、議決機関である「総会」、執行機関であり、地域の主要団体が参加して意見交換や情報共有をして連携できる場としての「運営委員会」、具体的に活動に携わり、住民参加の機会確保と参加経験者の中からリーダーを養成する体育、文化、環境、福祉、安全、広報、まちづくりなどの「専門部会」などが設けられた。それぞれの部会には、各団体からメンバーを出して事業を展開していく。各専門部会の部会長が運営委員会の主力メンバーになる。文化祭や体育祭など大きな事業では、実行委員会を作って実施する場合もあった。
この川西市の取り組みは県内でも先進的な実践であり、その手法には、下表のように、大きく2点の大きな特徴があった[注06]。
| 【1】地域の範囲は「小学校区」 |
| 前述の報告書では「中学校区」での推進が提唱されていたが、「推進する範囲が中学校区では地域の一体感を醸成し難い」「福祉委員会、体育振興会、子ども会など実際に活動している単位は大半が小学校区である」との判断をして、「おおむね小学校区」での取り組みを基本とした。「おおむね」としたのは、市の北部・中部で開発が進んだニュータウンの一部地域では、「中学校区」でのまとまりができていたことへの配慮から |
| 【2】スタートは「地域からの発案」 |
| 地域にコミュニティづくりの兆しが生まれ、その高まりの中で地域から市に対して支援の要請があれば地域に出向くという手順を担当職員は大切にした。市から地域に対してコミュニティづくりを働きかけることはせず、要請があれば地域に出向き、地域活性化の基盤を整えることの大切さを説いて、地域の意志による自発的な取り組み決定を促した |
①1980年(昭和55年)12月設立
多田小学校区 多田小学校区コミュニティ推進協議会[注07]
そして、この取り組みにまず呼応して動いたのは、多田小学校区の人々だった。
1980年(昭和55年)5月15日付け広報紙に特集記事が掲載されて間もなく、多田小学校区芋生自治会の上田英一会長から広聴課に対して、「コミュニティづくりの検討を始めたいから相談に乗ってほしい」という要請があった。当時の多田小学校区では、他の地区と同様に、自治会、体育振興会、子ども会などの各種団体が独自で活動していて、「校区内の全自治会員の温かい交流が必要」「地区として一体感のある活動を展開したい」という強い思いが校区内の各自治会の役員にあったからだった。そこでまず、校区内での研究委員会が設けられ、市の担当職員も参加した研究会、講演会、懇談会や県内先進都市への視察を行い、校区内の全自治会と主な各団体に報告していった。
その後、協議が重ねられて賛同が得られたことから、具体的な組織づくりを進める設立準備委員会が設けられた。そして、同年12月に、川西市で第一号となる「多田小学校区コミュニティ推進協議会」が設立された。
多田小学校区コミュニティ推進協議会は、発足後すぐの1981年(昭和56年)2月に「青少年問題を考える懇談会」を開催。校内暴力や暴走族の低年齢化などの問題を地域ぐるみで考える取り組みを行った。その後も「文化祭」「コミュニティバザー」の開催や「あいさつ道路」の指定、「新多田の歌」づくり、機関誌の発行など、多彩な活動を展開していった[注08]。
このような川西市の取り組みは、兵庫県を通じて自治省が注目することとなる。自治省は、1969年(昭和44年)9月に、国民生活審議会コミュニティ問題小委員会「生活の場における人間性の回復」と題した報告を受けており、コミュニティ推進のための「自治宝くじ助成金」を創設していた。この補助制度を申請していく過程で、川西市の「活動活性型」の取り組みが自治省から評価され、多田小学校区コミュニティ推進協議会は、1984年(昭和59年)2月、コミュニティ推進のモデル地区となった[注09]。