テキストを表示
構」を紹介し、同種遺構に関する変遷に一つのポイントをあたえた
昭和四十年代になると、全国的な地域開発ブームがはじまり"遺跡保存か開発か"が社会問題化してきた。鹿
角市も例外ではなく、開発に先だつ遺跡分布調査及び発掘調査があいついで実施された。昭和四十四年、四十六
年には、市内を通過する「東北縦貫自動車道遺跡分布調査」が小坂町を含む延長四五キロ巾四キロにわたって実
施された。四十七年には、市内東部を南北に貫く「鹿角大規模農道遺跡分布調査」が、五十一年には「国営総合
農地開発事業」にともなう分布調査が行われた。これらの調査では一部発掘調査も実施され、この結果市内の登
録遺跡数は四〇七カ所と増大している。
その間、昭和四十四年、四十五年には大湯黒森山総合開発計画に関連する「縄文期竪穴群」が奥山潤氏により
調査され、縄文時代中期末から後期初頭にかけての立石を伴う竪穴住居と、配石を伴う墓拡と考えられる遺構が
検出された。これらは先の清水向遺跡と同様、県内における好資料となった。
昭和三十一年国指定特別史跡となった大湯環状列石周辺にも、土砂採取や土木工事による環境破壊と、現状変
更の心配が問題化してきていた。事の緊急性を察知した市教育委員会は、秋田県文化課の指導協力のもとに、四
十八年から五十一年までの四年間にわたる「周辺遺跡分布調査」を実施した。これは鹿角市誕生後最初の埋蔵文
化財に対する調査であったし、"地域開発と遺跡保存"という今日的課題に係る前向きの取り組みであった。そ
の結果は、新たな環状列石と数カ所の組石遺構が確認され、昭和五十三年、遺跡周辺を含む「保存整備計画」が市
羽育委員会により作成された。五十五年には、教育委員会内に文化財担当専門職員の配置があり、県文化課と密