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性が強くなったとすれば、ここでも集落と同様に計画的な配列をおこなったのではないかという問題が生ずる。
朱落における世帯共同体の配列のあり方をそのままに写したとみえるものがある」。「この遺跡をつくった人々け
ハラというよりはムラの集まりのクニ位は形成していたと考えなければならない」等である。その位置について
は「集落は一般に墓地に遠くない」。「居住集団は、少しはなれて存在していたらしい」と推測されている。先の
二棟の住居跡についても、また範囲確認調査でも環状列石を中心とする外側に同心円状に存在すると考えること
ができる。
また水野正好氏は、先に記したように大湯環状列石は環状に配された組石墓群であるとの考えから、家族と墓
の構成からみた集落の関係について、興味ある見解を発表されている。水野氏は、万座遺跡について内帯中心よ
り径八〇メートル前後の環状に連なる住居跡群があり、万座、野中堂両遺跡は集落跡であって、列石は集落中の
墓域であるというのである。すなわち内帯と外帯を構成する列石は十二の単位に分割できるものであり、それら
の組石墓はその外側に同心円状にある環状住居跡群と対応できると考えたのである。具体的には万座の場合、六
軒の集落が環状列石の外周に存在し、居住期間中に居住帯を移動しながら(東北から西南へ、あるいはその逆も
ある)組石墓を構築したものであって、この場合東北は長期にわたり、西南は短期の住居跡群を想定している。
一方列石の構成(内帯・外帯)を分析すると世帯共同体としての村落(集落)を復原できるという考えもある。
結論的には、集落帯は現在の列石外帯の近くに、環状集落ともいえる円形、あるいは馬蹄形に配置されているの
であろう。そして広場でもあるその内部に、住居跡と対応した墓域として、組石墓の集合がサークル状に構築され