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器の概念からほど遠いものであり、これが弥生式土器かと疑われるものが多い。いっぽう石器の使用も引続いて
行なわれ、鉄器が生活の中に入るのは弥生時代の後半、もしくは歴史時代に突入してからとされている。
そういうことから山内清男氏は、この期の文化を続縄文文化と命名して、弥生式文化とは区別されている。〓
れに対し、伊東信雄氏は、続縄文文化も広義の弥生式文化に入ると解されている。東北地方特に北部は寒冷地で
あり今日でも冷害の多い地方であるから、古い時代から稲作が行われていたということは考え難いことである。
しかし同氏は昭和三十二年に南秋田郡琴浜村志藤沢遺跡で籾痕のある土器片を発見し、翌三十三年には津軽平野
に在する田舎館垂柳遺跡を調査し、炭化米二〇〇粒程を発見した。さらに北に位置する下北半島、同地方は本州
では最も稲作には適していない地方といわれるが、昭和四十四年に下北郡脇野沢村瀬野遺跡で籾痕のある弥生式
土器を発掘し、紀元一~二世紀の頃には稲作が本州の北端まで波及していたと推定されている。ちなみに東北地
方で、稲作を証拠だてる炭化米や籾痕土器を出土する遺跡は東北南部を中心に約四十カ所を数えるが、秋田県内
では一カ所にすぎない。昭和五十六年十一月、稲作の決定的な事実を証明する、弥生時代の中期末(約千九百年
前)の水田跡が、弘前市の北東五キロの国道一〇二号改良工事予定地に当っている垂柳遺跡から発見された。水
田跡は地下約五〇センチメートルに埋っており、幅約三メートルの大あぜ(畔)と、幅約六〇センチメートル、
深さ約五センチメートルの水路が東西に走っており、これと並行または直角に走るあぜによって区画されている。
近くからは弥生文化の特徴といわれる方形周溝墓(縦・横七メートル、高さ一〇~四〇センチメートル)が確認
され、墓の副葬品とみられる田舎館式土器も発見されている