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を須恵器の系統を引く土器、即ち須恵系土器という名で分類している。時代も十一世紀頃から十二世紀末頃と考
えられている。いずれ平安時代にはちがいないわけである。
そこで須恵器の事にふれてみたい。
須恵器の生産は、中国あるいは朝鮮からの渡来人の手によったものとされており、専業集団によって全国に伝
播したものらしく、規格化がすすんで、同一器形はほぼおなじぐらいの大きさでつくられている。従って、技術
は土師器より一段と進んでおり、ロクロによる成形と、のぼり窯といわれるトンネル型のカマで高い温度(千度
以上)で焼かれているため、灰色の、かなり硬度の高い土器である。
今までは、遺跡から土師器のみが出土したか、土師器と須恵器が一諸に出土したかによってその年代差が問題
にされてきたわけであるが、考古学的にも重要な指標になっている。
東北地方における須恵器の生産地は、秋田や岩手・青森でも、窯跡としていくつか発見されている。位置の配
置的分析から言って、鹿角にも窯跡がある可能性は十分あるといわれている。それは、古墳のある在地豪族の勢
力範囲に認められる遺跡にはよく窯跡が発見されているためである。例えば岩手県水沢市の見分森古墳群の近く
で、九世紀初頭のものとされる長頸壺・甕・杯などが出土し、窯跡などが発見された。この点、枯草坂古墳から
発見された土器では、内藤湖南博士の鑑定書に斎部土器と述べられている土器が、実は須恵器であることは、前に
も述べた通りであり、高橋健自氏の報告書の中にも「陶器片」と書かれていることから、ほぼ須恵器にまちがい
ないと思われる。