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とだいたい軌を一にしているのが、一般的な見方である。とすれば、これらの遺跡に見られる住居群は、八世紀

後半以降、蝦夷政策が安定した時期のものであろうと想像されるのである。爆発的な住居の増え方がそれを物語

っていると言えよう。それ以後は、律令国家の支配下に組み込まれていったであろう古代鹿角人の姿が彷彿され

るのである。

注1奈良修介・豊島〓「岩野山古墳」『秋田考古学』〓号昭三一

2東北歴史資料館編『東北の古墳』昭五二

3氏家和典「南奥羽地域における古式土師器をめぐって」『北奥古代文化』四号昭四七

4小岩末治「岩手太田村蝦夷森古墳調査報告」『岩手史学』〓号昭三〇

5・6曲田慶吉『錦木村郷土史』昭五

7奈良修介・豊島〓『秋田県の考古学』昭四二吉川弘文館

8『中野円墳状遺構発掘調査報告書』昭四八大館市史編さん委員会

9司東真雄「坂上田村麻呂の征夷の『夷』考」『東北考古学の諸問題』昭五一寧楽社

〓・〓同『東北の古代探訪』昭五五八重樫書房

〓新野直吉『出羽の国々』昭四八学生社

〓『日本の考古学・〓』昭五三河出書房

〓坂詰秀一「東北北部における須恵器の生産」『北奥古代文化』四号昭四七

〓江坂輝弥「奥羽地方北部の古墳時代の文化」『北奥古代文化』四号昭四七

〓・〓『世界考古学大系・4』昭五一平凡社