テキストを表示

蝦夷の人々

東北北部における蝦夷の生活は、『日本書紀』斉明天皇四年(六五八)四月の記事が端的にあら

んしている。阿倍比羅夫が船師一百八十艘を率いて蝦夷を討った時、楞田・淳代二郡の蝦夷が降

服したので、船を鰐田の浦に連ね碇泊した。蝦夷の族長ともいうべき恩荷が進み出て言うには「私共が弓矢を持

っているのは、官軍に刃向うためではない。ただ私共は肉を食う習性があるので、その狩猟のために持っている

のである。鰐田の浦の神に誓って、清く明らかな心で官朝に仕えます」というのであった。このことから、七世

紀半ばになっても、秋田・男鹿地方は「結論から言えば、稲作も知ってはいたが生産の主方向は明確に狩猟の方

にあり、弓矢は最も中心的な生産用具であったということになる。」対馬海流などで西の稲作文化の影響をうけや

すい海岸部でさえこうであるから、内陸部の鹿角においてはさらにその傾向が強かったであろう。(半田教授退

官記念会編『秋田地方史論集』所収新野直吉氏論文

考古学上の知見からすれば、南秋田郡若美町志藤沢遺跡や井川町新間遺跡などから籾痕のある弥生土器がみつ

かり、稲の穂を摘みとる石包丁が鹿角郡小坂町からも発見されて、この地方にも二~三世紀に稲作が伝わってき

ていたことを証している。にもかかわらず蝦夷社会に長い間非農耕民的生活が続いたことは、とくに北部にお

いては狩猟・採取・漁撈がもっとも確実に安定した生産手段であったからである。新野直吉氏は、この古代東

北の弥生系稲作農耕に伴う社会文化と、続縄文系非農耕狩猟・採取・漁撈的生産に伴う社会文化との併存形態

を、「班状文化」と呼ぶことを提唱された。また「山夷」と「田夷」の対比において、蝦夷が伝統的にもって

いる「山夷」性を、長い歳月をかけて稲田をつくる「田夷」化し、それを班田農民として定着させ貢租課役の負