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二、「蝦夷征伐」線上の鹿角
田道将軍と猿賀神社
奥羽北部の鹿角が、中央の政策や文化と接触する舞台は、つねに中央側からする「蝦夷
仙伐」「征夷政策」によって強いられたものといえる。「えぞ征伐」という呼称自体が
中央史家によってなされた偏見と蔑視を含んだ造語であった
旧十和田町猿賀野の猿賀神社は、田道将軍を祀るといわれ、境内に「田道将軍戦没之地」の碑が建っている。
『日本書紀』巻第十一(仁徳天皇)「五十五年に、蝦夷叛けり。田道を遣して撃たしむ。則ち蝦夷の為に敗られ
て、伊峙水門に死せぬ。時に従者有りて、田道の手纒を取り得て、其の妻に與ふ。乃ち手纒を抱きて縊き死ぬ。
時人、聞きて流涕ぶ」(岩波『日本古典文学大系』に拠る)、その上毛野田道の古墳の跡ともいう。この田道猿
算野戦没説が流布したのは、明治二十三年水戸の学者青
山延寿が「田道将軍墳墓併祠廟考」を発表してからであ
り、それまでこの説話は鹿角になかった。
玉暦年間(一七五一~六四)と推定される南部藩『御
領分社堂』には、自光坊支配・市妙院別当・猿賀野村「猿
算権現」と記載されている。また『不動院古記録』(伊
田道将軍戦没の碑
藤良三編『毛馬内郷土資料』収録)に「一猿賀野ニさる