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かの権現と申候て御社有り年号ハ知らず昔此猿賀野権現何の国より御飛成され候哉此さるかの一夜御越をかけ成

され候と申す其より津軽へ御飛成され候と承り候今ノ猿賀神宮是也」とあり、ここでは津軽との関連も述べられ

ている。

明治二十三年、東北旅行中の青山延寿が青森市内・弘前市内ともに猿賀神社の祭典で賑わっているのにあい、

その由来を尋ねたところ、弘前の東方猿賀村に田道将軍を祀る社があるという。もと鹿角にあった神霊が大洪水

の時流れ着いたもので、鹿角には将軍の墓もあるとの答を得、早速鹿角小田島由義郡長に調査を依頼した。その

結果、猿賀野村の口碑、神像の威容、蝦夷森・軍森・斥候坂などの地名から推して、古来茨城県夷針郡説・宮城

県石巻説など地名考証の分れていた伊峙水門とは本郡石野村であり、猿賀権現の地こそ田道の墳墓に相違なしと

論断した。

一方、津軽の猿賀神社(尾上町猿賀)は前記の由来とともに、征夷大将軍坂上田村麻呂がこの地方に兵を進め

苦戦におちいった時、田道命の神霊が田村麻呂を導いてついに大勝利を得た。そこで恒武天皇の勅許により大同

二年(八〇七)社殿を建立し猿賀野から田道命を勧請、奥州猿賀山深沙大権現として崇めたと伝えている。その

後安東氏・北畠氏や津軽歴代藩主が深く信仰し、秋の例大祭は岩木山神社・小栗山神社と並んで津軽の秋の三大

祭りとして賑わってきた(船水清『津軽の祭りと行事』)。

しかし、田道将軍戦死の地は津軽にも伝えられている。『東日流外三郡誌』の一節によれば、田道将軍が東日

流荒吐族と戦って敗れ、飯積味僧村の伊津水門を墓として葬むられた。人々是を味僧盛と称したという