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本県における最初の蝦夷経略といわれる斉明朝の阿倍比羅夫からさらに三百年も前の仁徳朝に、朝命による田
道将軍の蝦夷征伐がこの北奥で行なわれたとは考えられない。ここで興味深いことは、四世紀に遡る時期の早さ
と、田道が上毛野君であり、毛野氏の部民に関連するのがやがて登場してくる吉弥侯部都留岐のような吉弥侯部
氏である点である。新野直吉氏はこの時期と毛野氏について、田道が叛夷征討に派遺されて敗死した「これら早
期の書紀記事に信憑性の乏しいことは、坂本太郎博士の批判の通りであろう。しかしそれは、毛野氏が五世紀ご
ろからすでに東北に進出していたという事実までを、否定するものではない」「事実として、古代坂東の内陸部
に大勢力を持った毛野氏が、五世紀ごろから或いはそれ以前から東北を指向したとしても、少しも不自然はない
であろう」「多分安閑朝ころは、その順服の安定完成期であったと見るべきで、すでに五世紀から、毛野勢力へ
の大和朝廷支配は及んでいたにちがいないのである。それゆえ、四世紀からもはじまっていたと思われる毛野氏
の東北進出において、その五世紀ころからの動きは、すでに大和朝廷政権との関係を持ちながら、行なわれてい
たものと判断せざるをえないのである」(「所謂"征夷政策"本来の性格」『日本考古学・古代史論集』)との見
解を示された。
また別の視点から、司東真雄氏は「毛野君の祖神が駒形神で、この毛野氏とその部族である吉弥侯部族が団を
なして入植したところには、必らず駒形神がまつられるようになった」(『東北の古代探訪』)と指摘された。
鹿角の村々にほとんど駒形社やそれと混淆した宗善堂が祀られていることと、併せ考えたい。