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のであろう。あるいは鹿角の鉱業資源というものについても、今われわれが考えるよりは、遙かに進んだ関心や

知識を持っていたかもしれない」と述べている。さらに出羽側の都留岐が毛野氏系の吉弥侯部を称していること

から、すでに中央勢力と接触を持っていただろうこと。邑良志閑村のというように、みな「何某村の○〇」とい

う地名によって個性化され、地域地域を支配した勢力の長であるから、その勢力圏は一つの小国家的結合であっ

たこと。彼等は、同じ東北の現地勢力でも、中央勢力下に組みこまれ、その名を地域名で表わされなくなった土

豪たちとは違う存在であった。彼等は地縁集団勢力として位置づけられ、後者は「宇漢米公」「爾薩南公」なビ

と称される一つの氏族として位置づけられるべきで、かつて、中央氏姓制時代に「氏族でない社会集団」として

の「族」も存在していたことを証する過渡的形態をとどめたものとの貴重な提言をされた。

なお「おらしべ村」の音の近似からすれば、中世「津軽郡中名字」に載る鹿角「小猿辺」の比定地鹿角郡小坂

町の「尾樽部」もその対象にしてよいかもしれない。

元慶の乱と上津野村

〓慶二年三月、出羽の秋田城・秋田郡衙をゆさぶる大乱がおこった。この夷俘らの叛乱

は、秋田城司良今近(者)の苛政の結果であるといわれる。出羽国府は小野春泉・文室

有房に精兵を授けて派遣したが叛夷の猖獗ぶりには当るべからざるものがあった。政府は陸奥国に精兵二千人の

派遣を命じたが遅々として進まず、さらに上野・下野両国に各一千の派兵を命令した。五月、藤原保則を出

権守に任じてこの兵乱に専当させることとした。しかし保則の着任をみぬうちに、叛夷から「秋田河以北を己の

地と為すことを請う」との要求が示され、次いで秋田城集結の官兵五千人が敗退し、大量の兵具、食料、馬を悉