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く奪われる有様であった。

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ハ月、中央政府は小野春風を鎮守将軍とし、春風と陸奥権介坂上好蔭の両名に、各精兵五百人を授け陸奥から

秋田城救援に急行するよう命じた。七月に入り藤原保則が待望のうちに着任し、やがて小野春風と坂上好蔭も活

躍を始め、ここに新たな局面を迎えることとなる。

元慶二年十月十二日条)八月二十九日(略)、是の日陸奥権介従五位下坂上大宿弥好蔭兵二千人を率い流霞道

より秋田営に至る。賊降を乞うの日好蔭鼓躁して来り盛に旗幟を建て亦賊虜を威す(略)。又鎮守将軍従五位下小

野朝臣春風九月二十五日軍四百七十人を率いて秋田営の以北に来り着く。即ち言いて曰く、春風重ねて勅を含み

先ず上津野に入り賊類を教喩し皆降服せしむと。賊首七人相従いて同じく来る。(『日本三代実録』

、元慶三年三月二日条)去年九月十五日好蔭流霞道より来り二十五日に春風上津野より来る。是時道路泥深く風

寒く粛烈なり嶮岨を経過して士卒疲労せり。(『前掲書』

右の記事はいずれも、小野春風・坂上好蔭の両将が陸奥を北上迂回し、賊地十二村のうち一番奥地にある上津

野を通過して秋田営に至ったことを述べている。

八月二十九日は、叛夷三百余人が城下に来て降伏を願い出ていたが、丁度この日好蔭が兵二千人を率いて流霞

道から到着した。この兵二千人は、好蔭が陸奥権介であることから、先に逃亡した陸奥軍を再編成してきたもの

であろう(新野直吉「元慶の乱」『秋大史学』〓号)といわれる。流霞道は、岩手県七時雨山の西側を通り鹿

角郡に通ずる古道である。三月二日条には九月十五日来るとあって、その日付にくい違いをみせている