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たりへ出たとかいう風に見、文字通り霞流れる山道だったとすべきなのかもしれない」(『前掲書』)との見解

を示された。鹿角は当時、東のいわゆる七時雨道より鹿角に入ってから、北へ津軽をめざす道と西へ秋田をめざ

す道とが分岐し、あるいは南へ仙北をめざす道も加わり、東西連絡の要路として四通八達の状況であったと想像

される。

流霞道について、吉田東伍氏は「流〓路。陸中巌手郡より本郡に入り、津軽に通ふ直路の旧名にして、今も、

盛岡花輪の駅路は之に由る。即、巌手郡大更、松尾、荒屋(二戸郡)、田山と次第す。されど古道は大更より寺

田の七時雨山の西を越えて、荒屋へ出しと判知せられ、流霊衆(七時雨)の名を負ひたり。元慶二・三年紀に、流

霞とあるは羃を霞に誤写せる者とす。」(『大日本地名辞書』)と述べている

また高橋富雄氏は、その講演のなかで、流霞道は流霰道の誤りである。胆沢城・徳丹城から更に北上する奥路

を流霰道と呼び、上津野はその流霰道上の要衝であった。上津野は、未だ政府の支配力が及んでいない地域であ

るにもかかわらず「流霰道」という官道が貫通して、その影響力の及んでいた土地であるから、「上津野」は本

来「上道野」であったのではないか、という推測を発表された(「古代鹿角の諸問題」『上津野』六号)

上津野・火内・棍渕・淳代などをふくめ賊地十二村といわれる範囲にわたって一時猖獗を極めた叛夷の勢力が、

八月に至り続々帰順するようになったのはいかなる理由によるものだったろうか。一つには、津軽の「其の党多

種にして幾千人なるを知らず。天性勇壮にして常に習戦を事とす」といわれた夷狄たちの向背が双方にとって大

きな関心事であったが、結局叛夷側に加担しないという見極めがついたこと。次には元慶元年の凶作後の低い生