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産力が長期抗戦を支えきれなかったことなどが考えられる。上津野の酋豪が春風の教〓に従ったのは、その前か
ら幾度となく官軍との接触、交流を経験していた証左のように思われる。なお『藤原保則伝』に、春風の活躍を
是より先、賊王師の来り討つを聞き、衆万余人を率い遮りて険隘を守る。春風は少しく辺塞に遊び能く夷語を暁
る。即ち甲冑を脱ぎ弓鉾を棄てて、独り虜軍に入り具に朝命を宣ぶ。皆公の意の如し。是に於て夷虜頭を叩き拝
謝して云う。異時の秋田城司は貪欲暴横にして谿壑填め難し。若し毫毛も其の求に協わざれば楚毒の施を立つ。
故に苛政に堪えず逐に叛逆を作す。(略)
と記している。春風は少年の頃任地に赴く父に従ってか、よく夷語を解していたとあるあたり、その挙措が髣髴
としてくる。
三、十一・十二世紀の鹿角
上津野村の姿
ル世紀後半、秋田城下の夷浮の村として正史にあらわれた「上津野村」は、その後時代の流れ
の中に沈潜したまま、数世紀を経る。「鹿角郡」となって再び浮上するのは十四世紀初頭、鎌
倉末期のことであり、その間における状況は模糊として明らかでない
陸奥北部に建てられた奥六郡、胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手に俘囚長として勢力を振った安倍氏の時
代にも、鹿角はさらにその奥地として茫漠たるなかにあった。出羽を中心とした清原氏の時も、平泉を根拠とし、
陸奥・出羽の管領権を握った奥州藤原氏の時代にも、なおその定かな姿をあらわすことがなかった