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鹿角が上津野村としていつまで続いたかわからないが、当時の夷俘の村は現在の郡にも相当し、蝦夷のクニと

いってもよいほどの地域であったといわれる。正式には国家の郡郷制に組みこまれず、郷として取り扱われない

目然村落的な夷俘の一ブロックとしての存在を、長い間つづけていた。当然現地勢力としての豪族もおり、時代

はかなり遡るとしても県文化財指定の勾玉類を多く出土した枯草坂古墳、発掘調査されていないが末期古墳らし

い円墳を残している三光塚古墳などの墳墓に葬られた古の豪族のあとをうけるものであろう。鹿角は奥羽の脊梁

山脈のただ中にある狭小な一盆地という自然条件の恩恵をうけ、大きな兵乱にまきこまれることなく、時によっ

て出羽管下とも陸奥管下ともつかぬままに推移してきた。その山中の一盆地という自然環境が、鹿角の開拓伝説

によくあらわされている。『鹿角由来記』鹿角郡田畠開始之事によると、

二戸(一本に二戸)より又鬼来て鹿角川辺村に毛戸小屋をかけ、うたた内沢へ入花輪村領の内皮投獄へ登り鹿を

八百取り候て、皮をはぎなげ候故此山を皮投獄と名付八百の鹿の皮はぎ候処を八百と申候、右之沢より登り候得

ばなん時も仕合能き故うたた内沢と名付也、彼又鬼此山より鹿角川目見分仕候得ば鏡の様なる沼見え候、又鬼セ

もえ候は此川目切開き田畑に仕候はば能き郡に有るべしと見済雪消候節鹿角へ引こえ花輪本館臥牛へ移し柴内と

り切明候、其頃此処柴立故柴内と名付候、夫より鏡のようなる沼の辺より開今の鏡田村是なり、段々開揃村々人

居沢山なり、鹿角の三百丁と申なり、水上より川筋の流鹿の角に能似申候故鹿角郡と名付也、右の又鬼子孫花輪

今泉の式部大町鍛治安平也。

とある。この筋立ては、開拓は狩猟民によって行なわれたこと、三戸(二戸)という陸奥側から移っていること、