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黒沢家に残る細布織機

于県中世文書』では「えそのさと」と読んでいる。これを蝦夷の沙汰とすれば蝦夷地の管理権を意味し、一方

羽夷の里ととれば「京の里」鹿角郡に対置した表現となり糠部四門のうちの六戸・七戸の北門地方に当たるとい

う(宮崎道生『青森県の歴史』・荒井清明『新書青森県史1』)。このような争点に「京の里」として鹿角郡が引用

されるのも、その観念が古くからあったとの想定に立つものであろう。

天明五年(一七八五)旧八月、初めて鹿角に杖を曳いた菅江真澄は、「毛布の渡」を渡し舟で越え、古川村で

稲刈の女に教えられて錦木塚を探しあてた。「すこしもみぢたる木

々生ひまぢりたる中に、土小高くつきあげて犬のふせるがごとき石

をすへたり」と、感慨をもって長文の紀行を書きのこしている。古

えの歌枕を尋ねることを旅の目的のひとつにしたといわれる真澄が

錦木の朽ちしむかしをおもい出て俤にたつはじのもみじ葉

細布の胸あはざりしいにしへをとへばはたおる虫ぞ鳴くなる

と詠み、やがて鹿角から二戸へ入り盛岡・花巻・黒沢尻を経て江刺

に至る四ヵ月の旅行記に『けふのせばのの』と名づけていることは、

けふの里」鹿角によほどの興をもったからであるといえる

江戸時代、将軍の代がかわるごとに、各藩の施政や民情を視察す

るため巡見使が諸国を廻るのを例としていた。天明八年(一七八八)