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安倍氏の頃

古川古松軒が幕府巡見使に随行し、その見聞を『東遊雑記』十二巻に著わしている。九月四日「大湯村より南一

里二十町に錦木塚というあり、御巡見所なり。少しき山にて、方四間余、高さおよそ三尺五寸余にて傍に岩一つ

あり。杉の大樹一本繁茂す。外には小杉生いてあり。狭布の里といえるはこの辺すべての惣名とす」。巡見使の

旅程、巡路は古例にしたがって定められており、巡見使通行の度ごとに錦木塚に巡見所が設けられ、公式行事と

して古川村黒沢兵之丞が錦木塚・狭布の里の由来を一巻の巻物にしたがって申し上げ、持ち伝えてきた古の細布

をご覧に入れ、新たに織った一巻ずつを進呈するのが習しであった。この一事をもっても、他に何カ処かある陸

奥の歌枕錦木塚・狭布の里のなかで、いわば此処が広く知られた名所となっていたのである

孔上川流域の衣川以北に勢威をふるった奥六郡の司安倍頼時(頼良)は、「賦貢を輸せず、徭役

を勤むる無く」(『陸奥話記』)、南境を侵し磐井郡へ入ったことから、永承六年(一〇五一)

陸奥守藤原登任の軍と衝突し、以後安倍氏滅亡の康平五年(一〇六二)まで戦乱が続く。世にいう「奥州十二年合

戦」あるいは「前九年の役」である。登任軍大敗のあと鎮守府将軍に任命された源頼義との間に再び戦闘が再開

され、頼時は鎚屋・仁土呂志・宇曽利の夷人の首安倍富忠の敵対にあって死し、やがて出羽山北の俘囚主清原氏

が官軍に与力するに及び、安倍氏はついに厨川棚の火中に滅んだ。

「陸奥話記』に頼良の「父祖忠頼は東夷の酋長にして威風大いに振い、村落皆服す」とあるが、安倍氏の発祥

地はどこなのかわからない。奥中山峠の北、安比川流域とも、和賀地方ともいわれるが明証を欠いている。近世

の記録であるが『奥南落穂集』津軽ノ次第の項に「奥州津軽郡ハ神武天皇倭国ニ軍ヲ出シ長髄彦ヲ亡シ給ヒ其兄