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わたしはそんなふうに見ているのです」(「天台寺領の歴史」『天台寺研究』2号)と見解を述べておられる。

安倍氏の故地が津軽であったかどうかは措くとしても、その関係はきわめて深いものであった。では安倍氏の

本拠衣川棚と津軽地方を結ぶ主要連絡路は、どこにあったか。後年安倍頼時の外孫平泉藤原氏初代清衡が奥羽を

管領し、最初に着手したのは白河関より外浜に至るまで、廿余カ日の行程となるその一町ごとに笠卒都婆を立て

其面に金色の阿弥陀像を図絵することであったと伝えているから、平泉からひたすら北上して今の陸奥湾に臨む

青森辺から津軽へ入ったのかも知れない。しかし岩手と津軽を結ぶ一番の捷路は、安比川の上流から分水嶺を越

え、米代川に沿って鹿角へ出、盆地を北上して津軽側平川上流へ抜ける線であった。この見地からすれば安倍氏

にとって、あるいは後年の奥州藤原氏にとって、鹿角の通路を確保することには大きな意味があった

『東日流外三郡誌』に、東日流二祖安倍安東抄「大里方之祖安倍十郎貞義事」として康平五年(一〇六二)九

月「安倍一族は四散し、貞任の二子高星丸を護り追手を脱す。道のけわしさ武運尽きれば山も海もあだとなるい

や。北上川はたに人知れず咲く白ゆりにも似たる三才の遺児高星丸の衣は山鳩色、髪は鬢づらに結ばせて小さセ

手に孫父の遺髪、父の遺髪、兄千代丸の遺髪を奉り、乳母のふところに抱きまゐらせつつ山風にも耳おどろかし

落ちゆく哀れさぞ鹿角郡高畑に久しく忍住し、承暦三年三月、菅野左京之進・安塚平内・高畑越中の重臣に庇護

なさしめられ東日流平河郡淵崎に落忍、永保二年四月、館を築き不日に成就し、奥羽の旧臣を集抱へて安倍一族

の旧威を復せり」とみえている。「秋田氏系図」などにひとしく、貞任の末子高星幼く乳母に抱かれて津軽の藤

崎に逃れ、長じて安東氏、のちの秋田氏の祖となると記されている。厨川を脱して津軽へ至る間に、鹿角に隠仕