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したという伝承をもっていることは、鹿角が安倍氏にとって以前からその勢力範囲であったことを示唆している

ように思われる。なおまた津軽においてたちまち領主となり、安東氏として再生している姿に、並々ならぬ地縁

の久しく続いていたことを想像せざるを得ない

近世の南部藩士伊藤祐清(寛延二年(一七四九)没・六十七才)の筆録『祐清私記』鹿角金山はじまり之事の

項に、秋田境目検分のため鹿角へ出張した北十左衛門の許へ、理非曲直を裁いてもらった礼に赤土のついたまま

の山芋を持参した白根の老婆がいた。その赤土のなかに砂金のあるのを認め不審に思って尋ねたところ、老婆の

いうには「伝え聞く上代の事に候はん此處え都より人来り玉ひ其有山を知て其時国主と内談し砂金数千斤を求て

けり其年の国彼に禁裏え上けれは幸其年奈良の大佛造営之頃にて彼金泥を以て大佛を彩色奉候由其後段々掘伝候

得しか当国の主阿倍殿とやらの亡し時より一切に尽失けり絶て久敷事なれば只物語のみにて候」と。これが白根金

山発見の動機となったが、老婆の語る「当国の主阿倍殿とやらの亡し時より」とはまさしく奥六郡の俘囚長安倍

一族のことと思われる。

平泉政権と鹿角

〓九年の役で源頼義の要請をうけ、安倍氏を滅ぼした清原武則は、戦後破格の鎮守府将軍と

なった。その清原氏もわずか二十余年ののち一族相剋のなかに滅び、皮肉にも安倍頼時の外

孫藤原清衡によってその遺領のすべてがうけ継がれる。世にいう後三年の役が、鹿角にどのような波紋をおよぽ

したかは知るべくもない。ただ、湯瀬温泉の西側米代川渓流の名勝「姫子松」を望む対岸に、大きな岩窟がなら

んで「七かまど」とよばれ、後三年の役に因む伝説を残している。叔父清原武衡とともに、源義家と清衡の連合