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軍を金沢棚に迎え撃って敗れた清衡の異父弟家衡の妻子が、僅かな従者と共に逃避の旅を続け、ようやく鹿角へ

たどり着いてこの「七かまど」の岩窟のなかに潜み住んだが、たちのぼる竈の炊煙に人々の噂が広まる頃またい

づこにか去っていったという。

奥六郡郡司・陸奥国押領使という権力の座を平泉に築いた藤原清衡は、「前九年」「後三年」の両役に戦没し

た肉親や同族、もろもろの縁につながる敵味方をふくめた数多くの霊を慰め、仏法の力で奥州の安泰を祈るため

中尊寺を造営した。浄土教信仰の具現である金色堂も清衡の建立によったものである。二代基衡が毛越寺の本尊

を刻した仏師雲慶に対する礼物として、円金百両、鷲羽百尻、七間間中径ノ水豹皮六十余枚、安達絹千疋、希〓

細布二千端、糠部駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端等、この外に山海珍物を副えたという。これらは奥

州選り抜きの特産物で、このうち希婦細布について、『平泉雑記』東鑑訓点の項に「希婦ヲキフト訓ゼリ、是モ

南部領鹿角郡狭布ノ事ナルベシ、ケフト訓ズ、古歌ニ詠ル細布ノ名所地」とある。『平泉雑記』は元禄十六年気

仙郡高田に生まれた医家相原友直の著で、ここでも希婦ノ細布が鹿角産とする考え方が広く流布していることを

知ることができる。

鹿角における最古の寺院とおもわれる小豆沢大日堂は、浄法寺の天台寺と同様、平泉文化以前からあったと推

定される。高橋富雄氏は「天台寺の成立を平安後期の早いころ、十世紀末~十一世紀初めごろと推定いたしてお

ります。多分、安倍氏がその大壇主であり、比叡山の奥みちのく進出と手を結び、これを天台別院のような準官

守として運営することにも成功していただろう、というふうにものべました」(「天台寺領の歴史」『天台寺研究」