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第二節鹿角をめぐる古代の情勢
五ノ宮嶽
中大地ト云事寺号ニて中大寺トハ文字ノ相違ニテ中台寺ト申か本
に御ざ候皆ノ人大地ノ大地を取合中大地と申山号ハ福生山ト申と
〓ニ承候へ共棟札ニても無是(略)別当ハ代々先不動院同常楽院
と申伝候(略)鹿角山伏共此峯を修行而坊号を請申候と申伝候比
内之内ニ大日二所別所之大日とっこの大日ト申候是合而五所之大
日トモ申伝候右立始ハ不知候年号も不知候(略)
とあり、又『狭布古事記』に「一、中台寺大日堂不動院此宮立
始小豆沢村之大日堂長牛村之大日堂建立同然御座候」云々と記され
ている(伊藤良三『毛馬内郷土史資料〓』)。中大地(寺)とは今
の甚兵衛川原にあって焼亡し、ささやかな大日の祠堂を残している
のがそれであろう。この中台寺という寺号に、胎蔵界曼茶羅中台八
葉院の思想との暗合が感じられ、興味を引かれる。
藤原三代、平泉一〇〇年の経営は、事実上奥羽の大部分の地を被
い、かつての蝦夷地の様相を大きく変えつつあった。文治二年(
八六)五月、源頼朝は藤原秀衡に一書を呈し「御館は奥六郡の主
予は東海道の惣官なり。尤も魚水の思を成す可きなり」といったが