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裂年ならずして秀衡の死後頼朝の軍勢が阿津賀志山の堅陣を破り平泉に入ることとなる。戦意のない泰衡を討(
のに総軍二八万四〇〇〇騎という、平家追討にも動員したことのない大兵を発したのは、藤原三代の蓄積した巨
大な権力、経済力を評価したからに違いない。
『吾妻鏡』文治五年九月三日条に、
泰衡数千の軍兵に囲まれ、一旦の命害を遁れんが為に隠るること鼠の如く退くこと貌に似て、夷狄の島を差して
糟部郡に赴く。此の間数代の郎従河田次郎を相恃み肥内郡のyの棚に到るの処、河田忽ち年来の旧好を変ぢ郎従
等をして泰衡を相囲ましめ、梟首し、此頸を二品に献ぜんが為に鞭を揚げて参向オ
とある。糟部郡は糠部郡の誤まり、肥内郡勢の棚は今の大館市二井田付近とされている。この記述から東に糠
部郡があり、西に比内郡があれば、その中間に地形的な一ブロックを形成している鹿角も当然鹿角郡として存在
していただろうこと、泰衡が北海道をめざしたとすれば糠部・鹿角・比内を経て津軽へ出る路が古くからあり、
しかもそれは数千の軍兵に守られながら通れる官道的に整備された道であったろうことがわかる。
この鹿角路は、おそらく米代川上流の兄畑から兄川の谷を遡り畏部越えして熊沢川の谷へ出たのであろう。近
世に至るまで湯瀬渓谷の流れは千例の谷と畳々たる奇岩をもって人馬の通過を阻んでいたからである。そして夏
井・長牛を経て桃枝へ至り、巻山峠を越えて比内郡側大葛に下ると、犀川沿いに、執棚は目睫の間にあった。今
も桃枝は全戸藤原を姓とし、泰衡がこの峠下の小集落に宿陣した際その労を愛でて姓を授けたと伝えている。
泰衡が、この狭い河谷の盆地を逃れるように比内へ去った時、鹿角の古代もまた終焉を告げたのである。