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的郡郷制のことである。これらの機構をそのまま継承しながら、その主要な地位に頼朝麾下の御家人を任命する

ことによって、すみやかに奥羽全域を掌中に収める結果を得たのであった。すなわち頼朝の奥州支配は、基本的

に藤原秀衡・泰衡の先例によることとし、文治五年十月二十四日御教書に示された「出羽・陸奥においては、夷

の地たるによって度々の新制にも除かれおわんぬ、偏えに古風を守りて更に新儀無し」(『吾妻鏡』同年同月条)

ということにあった。奥羽は夷の地という頼朝の認識は「この国はきわめてしむこくなり、かまへて〳〵らうせ

きすな」(島津家文書文治五年八月十五日源頼朝書状)と関連するものであり、新儀と狼藉を排して平泉以来の

旧慣を維持する政策につながった(『中世奥羽の世界』入間田宣夫氏論文)

文治五年十二月出羽で挙兵した大河兼任の乱は、従来の国衙機構のもとに勢威を振るった者たちの最後の抵抗

であった。兼任軍は今の南秋田郡、山本郡から津軽地方へかけて転戦したあと平泉へ南下しているので、あるい

はその軍団か頼朝側討伐軍の鹿角通過といった事態があったかもしれない。乱の鎮定後、頼朝の施策はさらに徹

底的に行われることになった。それは奥州総奉行制と郡地頭制を中核とした制度であり、とりわけ奥羽各地の人

人に強い職権をもって直接関わることになるのは、郡地頭であった。

郡地頭職には、郡単位に一人ずつ、一部の例外を除いて関東御家人が新たに任じられた。その権限は広範にわ

農業生産全般に

たり、領域内の検断権

警察

が)・検田権

土地調

査権

〓)・収納権(

租税を徴収し、国

庫に納入する権限

)・勧農権(

)・雑人沙汰権

権

かかわる権限

庶民を裁判

する権限

)・寺社興行権

寺社の宗教活動

を保護する権限

など、国衙行政権の基本的内容をほとんど網羅するものであった。郡地

(

頭職は、頼朝が各国に置いた守護職を超える強い職権をもち、しかも奥羽全域にくまなく配置されたために、奥