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羽両国には守護設置の必要がなかったといわれるほどである(『中世奥羽の世界』前掲論文)
鹿角郡の建置は、糠部郡や比内郡などと同じく十二世紀の初め頃とみられる。鎌倉期には当然関東御家人が郡地
頭職に任命されていた。いったい、何びとが補任されて、どのような政治を展開したのであろうか。遺憾ながら、
その事実を直截に明証する史料は現存しない。郡地頭職そのものが遷替の職として交替されることが多く、とく
に鎌倉末期、北条氏が奥羽の郡地頭職の大半を掌握し、やがて鎌倉幕府とともに滅亡したため、郡地頭職関係文書
も共々抹消されてしまったのだろうといわれる。けれども最近における中世史研究の進展はめざましく、奥羽の郡
地頭職についての復元がかなり進んできている(『中世奥羽の世界』巻末・郡地頭一覧表)。これらの成果に学
いつつ、鹿角郡地頭の存在をできる限り追求してみたい。以下の各項は、ほとんど秋田大学遠藤巌氏のご示教に
基づくところのものである。
従来の説と典拠
倉幕府編纂『吾妻鏡』等の史書には、鹿角を明記した記事は見当たらない。鹿角の地に鎌
倉期関係文書の伝存はなく、近世初期に成立し始める鹿角史伝書にも、鎌倉期にかかわるも
のが少ない上に、その大半は検討を要する内容である。他県に伝存される鹿角関係文書数点のほかは、僅かに残
る板碑等の石造物や仏像などの考古資料に頼らざるを得ない。このような状況のなかで、従来、鹿角郡の地頭に
ついて次のように論じられてきた。
兎一は、文治五年奥州合戦ののち、関東御家人南部三郎光行が鹿角郡を含む糠部五郡の地頭職に補任されたと
いう、近世南部藩によって主張された説である。しかしその典拠は曖昧で、鎌倉期における糠部郡そのものにも