テキストを表示

した文書が「安保文書」である。

この「安保文書」のなかに、ただ一点、鹿角郡の初見史料で行員系相伝文書である〓文書の含まれていること

が、問題となる。安保光泰が、暦応三年(一三四〇)作成した大間譲状ともいうべき置文のなかには、鎌倉末期

の惣領家安保入道道堪の跡の大半を含み、かなりの所領が記されているが、鹿角関係の記事は皆無である。鎌倉

末期の安保惣領家も暦応三年段階の新惣領家安保光泰も、鹿角郡内に所領を有していなかったということになり、

少なくても暦応三年以降のある時期に、光泰系安保氏が〓文書を入手したと考えなければならない

初代鹿角郡地頭成田助綱説

このような史料検討の結果、鎌倉期鹿角の郡地頭として、安保氏よりも成田氏の

存在が浮かびあがってくる。

又書〓の関東下知状は、知行充行状の形式であるが、安保行員が祖母藤原氏女成田氏の跡地を継いだことに対

する譲与安堵状的性格をもっているという。行員がこの時点で、すでに「成田郷地頭郡司職」に関わる地をも得

ていて、それ故にこそ、祖母成田氏の跡地鹿角郡柴内村を与えられたものとみられる。下知状が割注を付して柴

内村の成田氏跡地であったことを明記するのは、柴内村の本主が成田氏であった事実を確認するためであったと

考えられている。

では、成田家資の娘藤原氏女が柴内村地頭となったのは、いつごろ、どのような理由からであったのか。成円

家資は、鎌倉武士団武蔵成田氏の初代惣領成田助綱の弟であるが、助綱の嫡子成田兵衛尉資泰が承久合戦におけ

る宇治川合戦で戦死した前後に助綱の養子となり、資泰の子忠綱が成長するまでの間、成田一族の中心として活