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動した。また、藤原氏女の夫安保信員は寛喜三年(一二三一)右兵衛尉として亡父実員の遺領配分を安堵されて
おり、その姉妹の一人谷津殿は北条泰時(一一八三~一二四一)の後室となって北条時実(一二一二~二七)を
生み、その妹丹治氏女は結城朝広(一一九〇~一二五六)の後室で結城祐広の母となった。藤原氏女の生存した
時期も鎌倉前期であるといえる。
鹿角郡柴内村は、鎌倉末期においても安保信員領でなく、藤原氏女領であったと認定されている。信員に嫁し
た藤原氏女が安保氏から分譲された所領ではなく、さりとて幕府女官としての形跡もない藤原氏女が幕府から新
恩として給与されたとも考え難い。それは父家資または祖父(実は伯父)助綱から分譲された女子分所領であり、分
譲の時期も、鎌倉前期と推定される。結局、鎌倉前期に成田氏が女子分として柴内村を分譲した前提には、成田
氏が鹿角郡地頭であった可能性が大きく浮かんでくるのである
鎌倉期前半においては、地頭の勢力が領内に浸透し開発が進むにつれて、郡内の村・郷を地頭の一族に分割・
譲与する例が多かった(『中世奥羽の世界』入間田宣夫氏論文)。成田氏も例外ではなく、実際、鎌倉期の鹿角
郡一円に成田一族の存在していた痕跡がみられ、鎌倉初期における成田氏鹿角郡地頭職就任を前提としなければ
解釈できないほどである。例えば建武新政期に鹿角郡国代として現われる成田頼時は、当時この郡内一円に勢力
をもっていた成田一族として抜擢された。鹿角郡田山郷・兄畑村の場合も、おそらく成田氏との姻戚関係を通じ
て安保行員領となったものであろう。文保二年関東下知状が柴内村の本主を成田氏と注記していることからも、
鹿角郡一円に依然として成田氏の本主権を主張できる状態があったものと考えられる