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地として扱った地とは、北条氏若しくは北条氏と共に滅亡した北条氏与党の所領以外は考えられない。鎌倉末期
の鹿角郡に北条氏が深く関わっていたことは、このことだけからも知られる
第二には、北条氏は義時以来一族が陸奥守に就任し、得宗専制といわれる権力のなかで、次々と奥羽の郡地頭
職を掌握していることである。北条氏の狙いは、郡地頭のもつ莫大な権益の掌握と得宗家を頂点とする新たな家
臣団編成にあったという(『東北の歴史・上巻(第五版)』)。北条氏による郡地頭職の集積は着々と進み、津
軽四郡や糠部郡は勿論のこと久慈郡や岩手郡も北条氏領に編入されたと推定されている。同じ歴史的条件下にあ
った鹿角郡が同様の軌跡をたどった、という可能性はきわめて強いといわねばならない
第三には、鹿角郡地頭と推定した武蔵御家人成田氏と北条氏の結びつきである。現在成田氏史料としてよく引
用される龍渕寺本「成田系図」については、鎌倉期の系譜関係分は現存『別符文書』の照合などからかなりの信
憑性が認められるという。この系図で、鎌倉末期の成田惣領として扱われている成田五郎左衛門尉家綱は、『八
坂神社文書』須富庄関係案文のなかに武蔵成田郷の領主として記された成田五郎左衛門入道であると推定される。
そして家綱は、子息とみられる成田四郎太郎秀綱とともに、鎌倉幕府滅亡の際北条氏と命運を同じくしている。
このことは、同じく幕府滅亡に際して北条氏と命運を共にした安保氏惣領の安保次郎左衛門入道らとかなりよ
く似通った立場を示している。鎌倉期の安保惣領家は奥羽では出羽国海辺庄に所職を有していたが、鎌倉末期の
海辺庄総地頭職は北条氏となっており、その下で安保氏も海辺庄西部六郷村ほどの領有を保証されていた(『山
形県史第一巻』)。信濃国小泉庄や播磨国佐戸庄における安保氏の所職も同様であった。この総地頭職-郷村地