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鎌倉期において地頭の手による農業開発も進行していたが、その地頭は、鎌倉御家人であり近畿地方等にも所領を
もっていることから、彼我を往来しながら、京・鎌倉をはじめ各地から先進的な技術の導入に努めたであろう。
農業開発のみならず、郡地頭にとってその調達・交易に大きな利潤をともなう馬飼育・砂金採取・布生産など各
種の分業も当然進められたはずである。
鹿角においても全体的に生産の高まりがあったと思われるが、しかしその実態は生産者層の眼にどのように映
ったものであろうか。あまりにも地頭中心で推移したその様子は、あるいは縁起や伝承の世界にも投影されてい
るかも知れず、今後の課題としなければならない。
すすむ代官支配
〓角郡地頭職に補任された関東惣領家は、この地へ代官を派遣して所務を執り行なった。本
和における代官支配の実態は、史料を欠いて明らかでない。他郡の例から類推すると、郡地
頭の下向は十数年ごとに一度という程度であり、常時現地にあって職務を代行する地頭代とその下僚の人数にし
ても、郡政所の規模でせいぜい十数人ほどであったとみられている。村地頭である成田家資女や安保行員または
東盛義らにしても、生活基盤は関東の所領にあったから、一族郎党数人程度を代官として鹿角の所領に送りこむ
にすぎなかったと想像される。このような代官支配で所領の保持ができるのは、それだけ幕府の権威のもとに機
構が整備されていたとしなければならない。
鹿角の北方にはさらに北条得宗家の重点的支配地である津軽の地が広がっていることを思えば、津軽と鎌倉を
結ぶ陸上交通の要衝として、鹿角路を頻々と往還する人々の姿が目に浮かんでくる。北条氏にとって全国に散在