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する所領を維持するため、交通路や交通に従事する人々を掌握することは重要な施策の一つであった。鹿角もそ

の例に洩れなかったであろうし、その意味において閉塞された農村社会というにとどまらず、人々の交通とそれ

にともなう産業や文化の進展があったとみるべきであろう。

北条氏領となった郡内の村々は、例郷の村と別納の村にわけられる。例郷の村は郡地頭北条氏の直轄地として、

郡政所の奉行たちによって管理される。一方の別納の村では村地頭が独自に年貢徴収の権限をもち、地頭には旧

郡地頭の一族や御家人系御内人が任命されていたという。ともかく郡地頭北条氏管下の村地頭は、形式的にはす

べて北条氏代官としての地頭代職に位置づけられ、身分的には御内人とされていた(『東北の歴史・上巻』第五

版)。このような形のなかで、次第に官僚制的な支配網をはりめぐらす北条氏に対し、旧郡地頭系で鹿角の地に

本格的に根を下ろしてきた成田・安保氏など御家人たちの不安は募るばかりであった。鎌倉末期に、得宗御内人

の画策に抵抗して関東の本領から惣領家直系の有力庶子が奥州所領へ下向する動きが活発となる。成田小次郎頼

時も、武蔵の成田惣領家直系の有力庶子として、この時期に急遽鹿角に派遣されたのではないかと推測される。

やがて時代の大きな転換のなかで、得宗権力に抵抗する具体的な人物像を、建武年間における成田小次郎左衛

門尉頼時や成田六郎泰次、または安保弥五郎入道や安保小五郎、滝瀬彦次郎入道らにみいだすことができるよう

になる。

在家・板碑の世界から

鹿角における地頭支配の実態を、さらに前述の安保行員譲状案の検討をとおしてみる

ことにしたい。