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族のいずれかであったとおもわれる。朝臣もなく官途名もないので、北条一族とみるわけにはいかないのではな
いだろうか。
これら鹿角板碑は、現在発見されている限りでは、すべて鹿角盆地の南端に偏っている。谷内館は熊沢川に沿
い母衣部越え・仙北越えの要路を扼し、長牛館(城)は巻山峠越え比内大葛に通ずる夜明島川の迫にのぞむ位置に
ある。とはいえ、鹿角全体を管轄する郡地頭の拠点とはみなし難い。板碑の造立されている位置は、まさに村地頭
にふさわしい居館のあった所といえるのである。さらには、長牛館周辺に残る「タタラ」「番匠田」などの地名
も、鍛治・番匠らの渡り職人の定着化を暗示していて、興味ぶかい。城館の南側「大日長根」の地に古くから
大日堂を勧請したことが伝えられ、数度の野火に焼かれた結果館内の現長牛大日堂の地に遷座したという。成田
氏とみられる「藤原秀□・秀有」が、郡内鎮守ともいうべき小豆沢大日堂に供養塔を造立したように、鹿角古来の信
仰を尊重する村地頭たちの行動のなかに、地域への確実な浸透と地縁性の深まりをみる思いがする
このように鹿角の地に根をはった武士層は、やがて勢いの赴くところ、関東の惣領家や北条氏の覊絆から独立
しようとする全国的な趨勢のなかに身を投ずることとなる。