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元弘没収地に指定
兀弘三年(一三三三)五月、足利尊氏の京都六波羅攻略、新田義貞による鎌倉攻めを経て
鎌倉幕府は滅んだ。六月四日後醍醐天皇は京都に還幸し、本格的な親政が開始された。〓
わゆる建武新政である。
北条氏の滅亡後、建武政府は朝敵所領没収令を発して、朝敵とみなした領主の所領をことごとく没収した。没
収の最大の対象が北条氏領で、これを元弘没収地という。
いったん元弘没収地に指定されると、内乱期をつうじてその烙印がくり返され、新しい領主層も次々と送りこ
まれる。まことに重い宿命であった。鎌倉末期に北条氏領に編入されたとみられる鹿角郡は、当然没収地に定め
られ、この重い宿命を担うこととなる。新政はきわめて短命に終わり、まもなく南北内乱の渦に日本全土がまき
こまれる。南朝も北朝も、奥羽の広大な闕所地をもって、武士層を自派に有利に組織するための新給対象地とし
た。建武政府によって新給の恩にあずかった者の多くは天皇側近の者たちだったといわれるが、鹿角郡地頭職に
誰が任ぜられたかは明らかでない。