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新政発足の奥羽において、新たな権力者として登場したのは、倒幕の最大の功労者足利尊氏である。後醍醐天

皇は還幸早々の六月五日、まず尊氏を鎮守府将軍に任命した。尊氏は天皇に申請して、一三ヵ国にわたる元弘没

収地三〇所の地頭職を得たが、そのなかに北条氏領であった陸奥国の外ヵ浜・糠部郡などが含まれている。この

尊氏が陸奥で得た地頭職は、かつて北条得宗家による蝦夷管領の拠点として大きな役割を与えられていた北奥那

地頭職が大半を占め、尊氏はただちに代官を派遣して安東氏に所務執行を伝えている。また北畠氏が陸奥守に就

任してからも、尊氏は津軽四郡をはじめ陸奥の所領調査を行なっている(『中世奥羽の世界』遠藤巌氏論文)。

ともあれ、朝敵所領没収令の下にあって、郡内郷村の地頭や所務代官は存亡の淵に立たされていた。北奥羽諸

氏のうち、ある者は津軽に拠って新政に抵抗しようとする北条氏一族のもとに集結し、ある者は格別由緒を掲げ

て上洛し天皇の安堵を得ようとした。鹿角郡柴内村・田山郷地頭の所職を握っていた安保行員の場合は、子息基

員を急ぎ上洛させたことが知られる(八坂神社文書建武元年四月日安保信阿代成田基員申状案)

後醍醐天皇は、このような情勢に対応し、国司を選任して各国ごとに収攬しようと図り、元弘三年八月五日北

晶顕家を陸奥守に、同十五日葉室光顕を出羽守兼秋田城介に任命したのである

陸奥守北畠顕家の鹿角政策

陀奥守北畠顕家は、義良親王を推戴し父親房の補弼をうけ、多賀国府に着任した。

ての国府体制は、のちに陸奥将軍府と称されるように、旧幕府と同様の機構が整

備された日本史上にも画期的なものであった。さらに国府支庁として陸奥各地に郡奉行所を設置し、在地を支配

9る直接の機関としたことは、元弘没収地処分を郡地頭職中心におこなう天皇親政と鎮守府将軍足利氏による陸