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暦応二年曽我貞光軍忠状(遠野南部文書)
る。急遽、糠部郡奉行所の南部師行のもとに派遣された
のが成田六郎泰次であった。泰次はこれまで北畠氏の膝
トに勤番していたわけである。暦応二年(一三三九)三
月津軽大光寺合戦に成田頼時と共に参陣している成田六
郎も同一人物であるとすれば(遠野南部文書暦応二年五
月二十日曽我貞光軍忠状)、泰次は頼時と同族であった
ことになる。また興国三年=暦応五年(一三四二)二日
二十六日、奥州葛西氏のもとに身を寄せていた鎮守府将
車北畠顕信が南奥白河城の結城親朝に国府奪回の出兵
を命じた時、北畠氏の派遣した使節が成田三郎左衛門尉
であった(秋田藩家蔵文書白川文書)。岩手郡出身と
いう河村四郎と共に北畠氏使節として活躍する成田三郎
とは、同じく北奥鹿角の成田一族とみられる。成田六郎
・成田三郎らが北畠氏の膝下に勤番していた姿こそ、北
畠氏による成田一族信頼の証しであろう。
このように、成田泰次が建武二年十月以前に早くも国