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府に勤番していたことからみて、成田頼時が奥州成田一族を代表してこの頃すでに鹿角郡奉行に抜擢されていた

と考えられる。南部師行が単なる「又次郎」で官途名をもたないのに対し、成田頼時が「小次郎左衛門尉」であ

った点も注目される。前節に掲載した成田系図は、鎌倉末期作成の素系図に室町期の忍城主成田氏の系譜「家時

-資員-顕泰-親泰」を挿入したものといわれるが、その挿入部分を捨象してみると、鎌倉末~南北朝初期の人

物として小次郎左衛門尉頼時の存在があらわれてくる。成田氏素系図に頼時の名が記されたとみられることは、

当時武蔵成田氏もその存在を意識していた証左ではなかったか、と思われる。成田頼時は、おそらくは武蔵成田

氏惣領家の直系につらなる有力庶子であった。鹿角に在郡して郡の事情に詳しく、鎌倉期郡地頭職の本主権を主

張できる成田一族を代表する立場にあったため、北畠氏国府体制下の鹿角郡奉行に抜擢されたと考えられている。

中斐御家人南部氏が、鎌倉期にどれほどの奥州所領を維持していたか明らかでない。鎌倉幕

府滅亡の時、得宗北条高時の弟泰家は奥州へ逃れようと御内人南部太郎・伊達六郎の二人を

案内にたて、南部六郎政長は逆に奥州より鎌倉攻めに馳参じている。陸奥に所領のあったことは確実である。だがそ

れは郷村を管理する北条氏代官としてであった。とくに南部師行は、南部庶子家の庶子に生まれ、延慶三年(

三一〇)兄時長・弟政長と三人に配分された甲斐国南部郷内八町歩余の地さえも、有力御内人長崎氏の聟となっ

た従兄弟武行や異母弟資行らに押領され、知行できなくなったほどである。そののち、建武新政樹立に功をあげ、

兄時長は政府の武者所に勤番することになり、師行は北畠顕家に随って多賀国府に下向し、すぐに北奥の奉行と

南部師行の場合

して派遣されることになった。