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したので、急ぎ津軽に下向した。しかし、この頃すでに、陸奥守北畠氏の津軽平定大動員をうけた安保氏らは、
津軽各地に戦果を挙げ、戦功によって安保弥五郎入道は沼楯村を宛行われていた。曽我光高は北畠氏に対し、代
代の由緒と軍功を掲げ所領沼楯村の安堵を主張した。建武二年三月二十五日陸奥国宣で勲功賞として沼楯村を与
えられた曽我余一太郎貞光を光高の改名とすれば、曽我氏は約一年後に所領回復に成功したことになる。
建武元年十一月、津軽北条氏余党の乱はほぼ平定され、主謀者は国府に送還、その他は津軽に留置されること
になった。その留置降人預人として、安保弥五郎入道は工藤治部右衛門二郎貞景を、瀧瀬彦二郎入道は内河三郎
二郎・同又三郎右真の両人を預ったことが知られる(遠野南部文書建武元年十二月十四日津軽降人交名注進状)。
工藤貞景は得宗領若狭の代官や正中の変における関東使節をつとめた有力御内人、内河右真は信濃安藤一族出身
の御内人として津軽平賀郡加土計郷などに所職をもっていた。このような降人を安保氏や瀧瀬氏が預けられたこ
とは、彼らが津軽合戦で国府方武将として活躍した結果にほかならない。
瀧瀬氏とは、鎌倉中期に安保実光の孫安保五郎光忠が武蔵国榛沢郡瀧瀬郷に拠って名字としたという、安保
族である。瀧瀬彦二郎・安保弥五郎は、その通名の示すとおり安保一族の庶子であるが、鎌倉末期の得宗領津軽
に所職をもっていたという徴証は未だ得られない。加えて、陸奥守北畠氏が津軽合戦のために当初動員したのは
陸奥とくに北奥諸氏であるから、彼らを出羽国海辺庄安保氏関係とみるよりは、おそらく鹿角所領に派遣されて
いた代官層の一員であった、と考えられるのである。安保弥五郎入道の子息とみられる安保小五郎と瀧瀬彦二郎
入道とは、のちに成田頼時らと行動を共にして、「(津軽)国中に乱入」したという(遠野南部文書暦応二年五