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月二十日曽我貞光軍忠状)。この表現から推しても、また、彦二郎入道は後述するように(〓・〓ページ)れっ

きとした鹿角武士であった。鹿角に基盤をもち、郡奉行成田頼時の下に結集していた武士層であった、とみなす

ことのできる徴証の一つである。

鎌倉末期に一介の代官として鹿角所領に在住していたときに、幕府が滅亡し、陸奥守北畠氏の登場にともなっ

て、その実力を認められ、鹿角武士としての基礎を固めてゆく。そのような領主層の一典型例として、安保弥五

郎入道らの軌跡を捉えなおしてみる必要を感じる

二、鹿角の内乱

南北両朝の対立はじまる

北畠氏の政策は、鹿角においても成功をおさめつつあった。しかし、建武二年七日

中先代の乱を契機として、足利氏が建武政府からの独立を宣言し、以後半世紀にわ

たって全国を戦乱の渦に巻きこむ、いわゆる南北朝の内乱が始まる。鹿角もたちまち戦火のおよぶ事態となった

内乱当初の戦局は、めまぐるしい変動をつづけた。足利尊氏が箱根竹下合戦の余勢をかって西上し、京都を占

領するや、北畠氏の率いる奥州軍がその跡を追って、すぐに足利軍を九州に敗走させ、北畠軍が陸奥に帰国する

と、再び足利軍が東上して京都を制圧し、後醍醐天皇は吉野で新政を継続することになり、建武四年北畠奥羽軍

が再度救援のために西上する、というあわただしさであった。日本の歴史上、二・三年間にこれほど日本列島を

東へ西へと大軍が移動する大戦争はなかったし、またこれほど奥羽が政局を左右する力を全土に見せつけたこと