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山城に圧迫し、多賀府を占めて本拠としたのである。

奥羽足利方の勢力増大は、急激であった。その要因を、建武新政への不満や北畠氏の施政不徹底に求めること

は容易すい。しかし、確実に北畠国府体制が成功しつつあった奥羽の地では、足利氏は北畠施政を否定し去るこ

とができず、むしろ北畠氏の方策を逐一踏襲し換骨奪胎を図ったことが、奥羽掌握を早からしめた秘訣であった

といわれる。鹿角の内乱も、この政策の機微を念頭にしながら実像に迫らなければならない

侍大将浅利清連の鹿角併管

陸奥守北畠氏に対置されたのが奥州総大将であったとすれば、国府体制下の郡奉

行に対応するのが、奥州総大将の下で奥羽各地に配置された侍大将であった。建

武二年八月足利尊氏が鎮守府将軍の称号をとどめられ、同年十一月代わって陸奥守北畠顕家が鎮守府将軍を兼ね

ることになって以来、陸奥国府を将軍府と称し、北畠氏も著しく軍事指揮権を強化した。それにともない、郡奉

行も郡検断的性格を強め、数郡規模の一定ブロックごとの検断を担当するようになっていた。足利氏はこの一定

ブロックごとの検断に対応して、侍大将を配したのである

侍大将は、北奥史料では合戦奉行とも記されているが、奥羽各地において郡検断または郡守護を称していたこ

とが知られる。奥州総大将もこの称号を正式に認可し、大犯三ヶ条の守護職権さえも明確に与えた、ということ

が確認できるという。南奥には、足利氏の発給した郡検断補任状も何通か現存している。この補任状そのものは

北奥に現存しないが、関連史料からその例をいくつかあげることができる。津軽には蝦夷管轄に携ってきた安藤

族から安藤家季、ついで安藤師季を抜擢し、さらに尊氏側近の弓名手と訟われた曽我一族の惣領曽我師助も派