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浅利清連の系譜は、定かではない。甲斐国浅利郷を名字の地とする甲斐御家人浅利氏が、鎌倉初期に陸奥国比
内郡を領有したと伝えられ、浅利清連の入道名とみられる沙弥浄光が比内郡と浅利郷の内の地を子息に処分した
文和三年(一三五四)譲状も伝存する(新渡戸文書)。また、奥州総大将が任命した各地の侍大将の多くは、そ
の地に勢力をもつ有力武将であった。浅利清連は鎌倉期以来比内郡に勢力をもつ浅利一族であり、おそらくは津
軽北条氏余党の乱鎮圧のときに実力を認められ、かつ源氏の流れを汲む武士であったことなども勘案されて、鹿
角・比内を併管する侍大将に抜擢された、と考えられる
かくして、鹿角では、南朝方の郡奉行成田頼時と南部師行、北朝方の奉行浅利清連らが、各々鹿角の正統な統
率者を主張する事態となった。足利氏は建武新政=陸奥国府の奥羽政策を承知しながらも、元弘没収地という認
定を出発点として、所領政策を展開している。鹿角は、元弘没収地の宿命を負っていただけに、浅利清連の登場
と同時に、所領のくみ替えも大規模に行なわれたはずである。極端に言えば、同一の所領に南朝方と北朝方から
各々領主と認定された武士が出現し、対立しあうという事態に直面することになった。争乱は複雑をきわめるば
かりである。
大里館攻防戦
〓角合戦の一端を伝えるのが、建武四年八月二十三日曽我貞光軍忠状である(遠野南部文書)。
別述の建武五年五月十一日浅利清連注進状は、この軍忠状の注進披露状であり、貞光は貞和三
年五月日申状で再びこのときの軍忠をくり返している。南北朝内乱の一角を占める鹿角合戦は、この軍忠状で確
認できるほかにも頻々と展開していたと思われ、またこの軍忠状にしても、貞光が参戦した範囲内の、貞光の立