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同十四日、大里楯に押寄せ合戦を

致さるの時、(貞光の)若党

(浅利の)御手に属し、毎度の合

戦に忠勤を抽んじ候了んぬ。同

-尾楯に合戦を致すの時、(〓

光の)中間源七は左肩を射抜かれ

候了んぬ。此の外、所々に合戦を

為し、忠節を致し候事、勝て計ふ

可からず候。」(文意上、主語な

どを括孤で補った。また當楯は雷

楯と読める。)

建武四年曽我貞光軍

この軍忠状に「承り了んぬ源(花押)」と證判を与えたのが、奉行浅利清連である。その浅利清連の注進

状では、「比内郡凶徒新田彦次郎政持等並びに鹿角郡国代成田小次郎頼時、同じく南部又次郎師行の代官等小笠

原四郎・鳴海三郎太郎、以下の凶徒等を、自ら誅伐せしむ」と記している(前掲建武五年五月十一日注進状)

この頃奥羽各地で合戦が熾烈にくりひろげられており、建武三・四年=延元元・二年の鹿角合戦はいわば局地戦で