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あったが、北朝方奉行浅利氏が南朝方奉行成田氏に対して
鹿角を戦場に真向から挑んだ最初の合戦とみられる。曽
我貞光軍忠状に与えた浅利氏の署判の大きさや雄勁な筆
致に、清連の立場と誇りまで表明されているようである
成田氏には糠部から、浅利氏には津軽から、それぞれ援
兵があったとしても、当時の奥羽各地の局地戦から類推
すると、その軍勢は各々数百余程度であったとおもわれ
る。それでも狭い鹿角の山野は、激戦の様相を呈して震
憾したことであろう。だが、それ以上に注目されるのは
八月と七月の真夏の合戦とはいえ、建武三・四年は記録
的な冷害が日本全土を襲った年であったことである(西
岡秀雄『寒暖の歴史』)。北奥の鹿角の稔りはまったく
期待できなかったにちがいない。飢餓におびえる農民た
ちをよそに長期戦は到底覚束ない。浅利軍は鹿角の城館
を攻撃し、嵐のごとく駆け抜けていった。
二藤次・當(雷)・大豆田の三楯は七月十一日に陥落
大館(へいぞう館)2.幡幅館(はたへい館)
}.八幡館4.疱瘡館5.あぶみ館
・笹森館7.屋敷
第5図大里館概略図